【連載】『令和4年度卒業記念特集』第12回 菊地彩花/男子サッカー

ア式蹴球男子

挑み続ける

 学生が主体となって動く。これは早稲田大学ア式蹴球部(ア式)に一種の哲学みたいなものとして受け継がれてきていることだ。聞こえは良いが、いざやるとなるとやはり難しい。主体的になる分、自らで考え、実践し、結果を残す。まだ人間として未成熟な部分も多い学生には、少々重すぎるようにも感じられるからだ。ア式に来れば自分も主体的になれるといった生半可な気持ちではやり過ごせない。この一見厳しい環境下において輝いていた人物こそが、ア式蹴球部マネジャー、菊地彩花(政経=千葉・渋谷教育幕張)だ。「今までにこんなマネジャーはいなかった」と自分でも回顧するほど、あらゆることに自分から挑戦し続けてきた菊地。ア式史上最も「主体的なマネジャー」といえる彼女の4年間、そして今後に迫った。

ア式での4年間を終えた菊地

 菊地とサッカーという競技との出会いは3歳のころまでに遡る。2つ上の兄がプレーしていた姿を見て「自分もやりたい」と両親に訴えたそうだ。サッカー界に足を踏み入れた菊地は、その魅力にどんどんのめりこんでいく。選手としてプレーに熱中しつつ、休日には何試合もの映像を見る、まさにサッカー付けの日々を送っていた。高校時代には女子サッカーの本場アメリカへと留学。語学留学ではあったが、異国の地でもサッカーに明け暮れた。しかし菊地は、高校で選手としての自分に終止符を打つと決断する。大学の女子サッカーのレベルは非常に高く、その環境に身を置くことは自身にとって厳しいと判断したからだ。それでも「サッカーには携わっていたい」と、サッカーへの情熱が冷めることはない。そのため大学ではサッカー部のマネジャーという新たな関わり方を選んだ。

4年間のア式での経験を「かけがえのない時間」と振り返った

 こうしてア式にマネジャーとして入部した菊地だが、最初は多くの苦悩を味わった。女子サッカーから男子サッカー部という環境の変化、学業との両立、ア式の伝統や慣習に適応すること、いずれも簡単ではなかった。それでも「ここでやめたら意味がない」。自分でマネジャーになると決め、自分でア式に入ることを選んだという意識、周りの人たちのために自分がなりたいという思いのもと、苦しい日々を何とか乗り越えた。そして菊地は徐々に活動の場を広げていく。1年目から社会貢献活動や広報、ア式のマスコットであるアルフの活動にも意欲的に取り組み、2年目からは学連(関東大学サッカー連盟)にも携わるようになる。学連に入ることは、1年時に試合運営の手伝いを経験したことで学連という組織に惹かれ、自ら進んで決断した。学連は試合会場の手配から当日のスケジュール決め、各校のテントや補助員の配置の仕方までを学生が中心となって担う。まさにア式と同じく学生主体の組織だ。そんな組織で菊地は試合運営の経験はもちろん、他校のサッカー部と関わる機会を多く持てた。ア式を外から客観的に見ることで、ア式のすごさを再認識し同時にア式の改善点も分かる。「とても学びがある」学連での経験だったという。

 加えて菊地が「自分が切り開いてきた道」と言うのがSNSにアップする画像の制作だ。菊地の入部当初もア式はTwitterやInstagramに試合結果などを投稿していた。しかしそれはただ写真を上げるだけで、見た人の目を引くものと言えるかは微妙なもの。だが今の時代、若い人を呼び込み、若い人に見てもらうことを意識するとSNSを活用せざるを得ない。そこで菊地は「タイムラインに流れてきただけでも、目につくようなものを」と、画像制作のノウハウを確立した。「全部が全部自分が作ったものではない」と言うが、プロ顔負けの試合予告やスターティングイレブンの紹介画像がア式のSNSに上がるようになった。最近ではJリーグ内定者の特集画像も作られている。これらの結果として、現在のア式のSNS、特にInstagramのフォロワー数は、菊地が入部したころに比べ倍増したという。もちろんこの画像制作は後輩たちに受け継がれており、ア式の新たな文化として根付いた。マネジャー業務だけでない、ア式の活動、学連の活動、多岐にわたって自らで挑戦し多くのことに挑戦し成し遂げてきた菊地の4年間だ。

その活躍の場はア式だけに留まらなかった

 「一つのブログが人生を変えた」――。ア式での一番の思い出を聞くと、菊地は挑戦してきた数多くのことの中から、大学2年時の冬に大きな反響を呼んだ自身の部員ブログを挙げた。テーマは『やっぱり、私はJリーグで働きたい』。幼き頃にスタジアムで味わった光景を自らの手でつくりたいという夢を抱き、その夢にどのように近づいていくかを綴ったものだ。あえてキャッチーなテーマにすることで多くの人に目をつくことを意識したこのブログ。結果、これをきっかけにサッカー界を超えた、日本の複数のスポーツクラブから声がかかったという。そしてブログに書いた夢、Jリーグクラブを次なる場所として菊地は選んだ。SNSのための画像制作などやイベントの運営に携わることがそのクラブでの今後の役割だという。これはまさに菊地が自ら培ってきたこと、ア式に文化として根付かせたものに一致する。このブログが菊地に与えた影響は計り知れないものだろう。しかし、決してこのブログの中身だけには留まらない、自身がア式で日々挑戦してきたことが菊地を夢へと導いたのだ。

 「知らないことがあるのが嫌」。「負けず嫌いなので、誰かより知識が劣っていることがすごく嫌なんです」。ア式で挑戦し続ける菊地の原点がここから垣間見えた。試合運営という「知らない世界」を見たから学連に入った。多趣味で装飾が好きだったとはいえ、画像制作という当時のア式で誰も「知らない世界」に自ら踏み込んでいった。自身が知らないことを無くすことこそ、誰よりも多くのことに主体的に挑み続けた菊地の原動力となっていたのだろう。

「こんなにやっても良いんだよという前例をつくれた」。菊地自身が多くのことに挑み続けた4年間、ア式に間違いなく新たなマネジャー像を生み出した。菊地が4年間挑み続けた姿は確実に後輩の目にも深く焼き付き、継承されていく。そうなれば自然と菊地の後輩たちに託した「とにかくいろんなことを更新してほしい」という願いも実現していくだろう。そして菊地自身も――。挑戦の日々はア式での4年間では終わらない。今後の人生の中でずっと続いていくはずだ。

(記事 髙田凜太郎 写真 ア式蹴球部提供)