【連載】『平成29年度卒業記念特集』第64回 木下諒/男子サッカー

ア式蹴球男子

思考を止めない

 2017年7月15日、等々力陸上競技場のロッカールーム。スターティングイレブンの中に、一年半もの間記され続けていた名前がなかった。その名は木下諒(スポ=JFAアカデミー福島)。ワセダが誇る頭脳派サイドバックが過ごしたア式での最後の2年間は苦悩に満ち、それでいて刺激的な毎日であった。

 木下がサッカーと出会ったのは幼稚園年長の時。仲のいい友人に誘われ、みるみるうちにボールを蹴る楽しさにのめり込んだという、他のサッカー少年たちとなんら変わらない出会いであった。小学生の時にはFWとしてゴールを量産し、地元で名をはせる存在に。中学生になると、その実力を買われて地元を離れJFAアカデミー福島に入団。日本でも指折りのサッカーエリート養成施設に身を投じた。ここでの監督との出会いが、木下のサッカーに対する価値観の形成に大きく影響を及ぼすことになる。「理論的に動いたら絶対うまくいくという考えの監督だったので、サッカーの上で考える力は本当についたと思う」と語る木下。練習でも試合でも監督やコーチに高度な要求をされ続けたことで、木下のサッカーIQは飛躍的に高まっていった。それ故に、高校1年時に攻撃的なポジションから本格的にサイドバックへコンバートされた時も、戸惑いながら適応に成功。持ち味である攻撃センスを残しつつ、最終ラインの一員として課せられる守備のタスクを、その難しさを楽しみながらこなしていった。

早大での公式戦出場数は50試合を超える

 高校3年時の練習参加を経て一般入試でワセダに入学。1、2年時には出場機会を得られなかったものの、3年時に左サイドバックのレギュラーの座をつかむ。アカデミー時代と同じく、相手の隙をつくオーバーラップと精度の高いクロスでワセダの攻撃に厚みを持たせた。『攻撃面での自分の特長』が通用していることを実感し、手応えを感じることはできたという。しかし、肝心のチームが勝てない。前年の関東大学リーグ戦王者はこの年、試合を追うごとに2部降格が現実味を帯びていき、その見えない重圧に押しつぶされていく状況に陥っていた。敗戦に対する危機感だけが募り、焦りだけが先行していく。「毎週ずっとびくびくしていた。エネルギーの出し方が降格に対する危機感による働きかけしかなくて、自分たちはこういうサッカーをしたいと考えることを全員が放棄していた」と木下は当時をこう振り返った。果たして、ア式は12年ぶりの2部リーグ降格という憂き目に遭ってしまう。

 2部リーグに戦いの舞台を移して迎えた最後の一年。ア式イレブンは前年の反省を生かし、思考を止めずにプレーする方針を打ち立て、再建への舵を切った。木下は前年度に引き続き左サイドバックのレギュラーとしてプレーし、チームは昇格圏内の2位でシーズンを折り返す。自身にもチームにも手応えを感じていた中で迎えた伝統の一戦、早慶サッカー定期戦。左サイドバックとして先発出場を果たしたのは、後輩の冨田康平(スポ3=埼玉・市浦和)だった。「紅白戦から俺かトミー(冨田)か、どっちなんだというのはあった。でも俺自身のパフォーマンスもよかった自信はあったので、メンタルにはきましたね」と、当時の心境を赤裸々に語る。結局リーグ戦後期のア式は、冨田をそのまま左サイドバックのファーストチョイスとして激しい昇格争いを繰り広げていった。当然だが、控えに甘んじる現状を簡単に受け入れることができるプレーヤーはほとんどいない。木下も例外ではなく、自分がピッチに立てない歯がゆさを感じながらトレーニングを続けた。そうした中迎えた首位・国士舘大との最終節。勝てば逆転優勝、負ければ2部残留という極限の状況下で行われた試合の前のミーティングで、木下はこう切り出した。「こういう立場(控えメンバー)だけど、本当に勝ちたい」。試合に出場できない悔しさはあったに違いないが、ただひたすらにチームの勝利を願った。木下を含め、控え選手の思いを受け取ったイレブンは国士舘大との接戦を制し、2部優勝。一年前に味わった屈辱を晴らした。

 ワセダを卒業後、東京武蔵野シティFCへ入団した。「大学時代にビジネス関連の人と関わった時にその楽しさというものに気付いた。総合的に判断した結果武蔵野でお世話になることにした」と、サッカーを続けながら新しい将来の道を模索することを決意した木下。新天地でも思考を止めずに突き進むつもりだ。

(記事 森迫雄介、写真 栗村智弘氏)