28年ぶりの表彰台となったノルディックスキー複合団体日本代表。その熱い戦いに日本中が沸き、大きな感動が生まれました。チーム最年長の永井秀昭(平18スポ卒=現岐阜日野自動車)選手は前半のジャンプでは128.5メートルをマーク、後半のクロスカントリーでは2走として出場され、3度目の五輪で初のメダル獲得となりました。今シーズン限りで代表活動を引退される永井選手に、最後の五輪となった北京五輪を振り返っていただきました。
※この取材は2月28日に行われたものです。
「やるしかないという覚悟を決めた」
力強い走りを見せる永井
――ノルディック複合個人ラージヒルではジャンプ32位、最終31位という形でしたが、結果を振り返ってどうでしたか
個人戦に関して言えば、前半のジャンプで大きく出遅れ、練習の時にはなかなかしないような失敗を本番でしてしまいました。いつも通りやろうとしていたことが、どこかで力みや何かしらの影響があったのか、いつも通り取り組もうとしすぎた結果、他の無意識のところで力みなどに繋がったのかなと思います。前半のジャンプに関して言えば、練習でも出さないようなジャンプをしてしまったっていう印象です。後半のクロスカントリーに関しても、やはりあれだけ出遅れてしまうとレース展開というよりも前を追っていかなければいけない展開で、他の外国人の選手からしてみてもクロスカントリーの力では若干劣る部分があるので、妥当な結果かなと思います。
――ジャンプを飛ばれる時、直前まで頭の中で何かを意識していますかそれとも無心ですか
僕の場合は、まずやらなければいけないことを整理してスタートラインに上がるという感じです。ある程度やらなければいけないことを絞ってスタートバーに座るような状況を作っています。その時々によって持っている課題だったり目的だったりっていうのが変わるので、その時の状況に応じて今何を改善しなければいけないのか、どこに気をつけなければいけないのかというのを整理しながら上がっています。
――その後に団体戦が控えていたと思うのですが、団体戦に向けてどのように気持ちを切り替えましたか
正直かなり自分の中ではプレッシャーではないですが、ずっと緊張の糸が張っているような感じでした。でももう「やるしかない」という覚悟を決めて、試合までそういう気持ちを作っていった感じですね。
――やはり個人戦と団体戦とは緊張の度合いなどは違いますか
そうですね、個人戦の場合は失敗しても返ってくるのは自分だけ、でも団体戦だとチームに影響が出てしまう。だから私もその辺は責任の重み(を感じる)というか、団体戦には個人戦と違う緊張感がありますね。
「気力だけでつないだ」
――(スキーノルディック複合団体の)メンバー全員が早稲田大学の出身ですが、在学時代の話はされましたか
「自分達の代はこうだったよ」という話はしましたが、試合前に特別そのような話はなかったですね。
――試合前にチームで目標など話し合いはされましたか
話し合ったというよりも、団体戦の前日に個人戦のラージヒルのメダルセレモニーがあって、チームのエースの渡部暁斗(平23スポ卒=現北野建設)がメダルセレモニーができて、僕らも実際のメダルセレモニー会場に行ってその表彰式の様子を見ていました。弟の渡部善斗(平26スポ卒=現北野建設)と僕が(渡部暁斗選手と)同部屋だったのですが、彼が部屋に戻って来てからメダルを僕と善斗に見せてくれて。その時に彼から「明日(ノルディック複合団体)もこれを取りましょう」と良い言葉をいただきました。それによってなんかスイッチがグッと入ったというか、さらに士気が高まったという感じですね。
――前半のジャンプでは事前に具体的な目標はありましたか
何メートルというよりも、とにかく強豪国と差の無い状態でジャンプを飛び終えたいという(思いの)方が強かったですね。具体的な数字を挙げるとしたら、130(メートル)ぐらいは飛んでおきたかったなというところです。
――結果は128.5メートルでしたが、振り返ってどうですか
個人戦の失敗からうまく修正できたので、その辺に関して言えば及第点をあげてもいいのかなと。欲を言えば細かい失敗や、まだまだ改善しなければいけない点はありますが、あの状況では自分にできるパフォーマンスだったのかなと思います。
――後半のクロスカントリーの滑走順はどのタイミングで決まったのですか
滑走順はジャンプが跳び終わった時点でコーチがオーダーを提出するので、ジャンプが飛び終わらないと分からないです。僕は(選手の)皆さんが飛び終わって自分たちの、日本の控え室に戻った時に伝えられました。
――2番手と決まった時はどのようなレースをしたいと考えましたか
ほかのチームのオーダーを見てからちょっと考えようかなと思ったのですが、前半の(ジャンプが)終わったタイム差的にも、4か国が12秒以内だったのでおそらく集団にはなるだろうという想像はできました。集団になってバトンをもらったときには、必ずその集団から大きく離されずに第3走の暁斗にバトンタッチするっていうことだけでした。
――レース前に「ここは気をつけよう、注意したい」という部分はありましたか
今回の会場は標高がだいたい1600メートルぐらいでちょっと高いところだったので、前半あまり突っ込みすぎず、でもしっかり集団をフォローできるようなところで走るというところです。
――1位グループについていくレース展開でしたが、滑走中はどんなことを考えていたのですか
僕の場合は「どれだけ集団から離れずにバトンを渡すか」というところだったので、「絶対離れないぞ」という強い思いだけをもって走りました。
――ご自身のレースを振り返ってみていかがですか
2週目に入りペースの上げ下げなどがあり、正直後半の方は足にも乳酸がどんどん溜まってきて辛い状況だったのですが、それでも「絶対離れないぞ」っていう気力だけでつなぎました。トップから大きく離されずに4.6秒差で渡せたので、この辺に関して言えば許容範囲内でバトンをつなぐことができたのかなと思います。
――後続の選手たちのレースはどのように見ていましたか
ゴールエリアの方に移動して、実際に会場へ(滑走している選手が)戻って来るときは自分の目で確認できます。テレビ中継と同じような映像が流れるモニターが会場にもあるので、会場のモニターを見ながら観戦していました。
――どのような思いで他の選手のレースを見ていましたか
もう「いけー!」っていう(笑)。 まあ暁斗はあの集団の中で走って、あわよくば集団から飛び抜けて第4走の山本(涼太、令2スポ卒=現長野日野自動車)にタッチするっていうところだったと思います。その辺は全然心配なく観戦していましたね。
――アンカーの山本選手のゴール後、選手みんなで抱き合って喜んでいる姿が印象的でしたが、互いにどんな言葉を掛け合っていましたか
正直あんまり叫びすぎてあまり覚えてないです(笑)。声も枯れて、興奮しすぎて何喋っていたか分からないのですが、多分「やったなー!」みたいな話をしていたと思います。
――メダル獲得の際にはどんな思いが湧き上がってきましたか
やはり長かったっていう印象と、ようやく取れたというのが一番ですね。あと本当にこのチームでメダルを取れたこと、メダル獲得に貢献できたということがすごく自分の中では嬉しく思っています。
「無駄なことはなかった」
――大学卒業を機に、競技を終えるという選択肢は在学時ありましたか
僕の中ではあまりそこは思ってなかったですね。というのも、なんとなく直感ですけどこのままやめたら後悔の方が大きいなという気持ちがありました。
――ある報道局の取材に対して、『前回(平昌大会)が最後のつもりだったが、やり残した思いが強かったのでこの(北京)五輪を目指した』と話していらっしゃいましたが、やり残した思いとは何ですか
やはり団体戦でのメダル獲得じゃないですかね。平昌五輪では前半のジャンプでいい形で折り返して、「もしかしたらメダルいけるんじゃないか」という思いもありました。でも後半のクロスカントリーで日本チームが全体的に他の国と比べて力不足で、メダルの獲得に至らなかったので、たぶんその思いが僕の中のやはりどこかにあったんでしょう。
――その(また五輪を目指そうという)思いはいつ湧き上がってきましたか
僕の場合はそれこそ本当に平昌で最後かもしれないという思いでしたので、その先はもう一年一年が勝負だなと考えていました。その一年一年を乗り越えた先に北京(五輪)があるなあという状況でした。とてもじゃないですけど、平昌の先の4年後っていうのは明確なイメージは全くできなかったですね。
――そこから競技を続けていくことに迷いや不安はありましたか
もちろんそういうのはあります。いろいろな考えだったり葛藤だったり、本当に「このまま続けていって、その先に明るいスキー人生の未来があるのか」とかそういうことも含めて、色々考えました。ただ、どうしてもやっぱり「結果として、形として残るものをまだ手にしてない」という僕の中でどうしてもやり切れないものがありました。心のどこかにやはりその思いが引っかかっていて、そういう葛藤や迷いとかもありながらも続けていくことで何か答えが見つかればいいなと思って続けてきました。でも本当に今だから言えますけど、しんどいときのほうが多くて、何度も心折れそうになったときもありました。だけど折れる寸前でいろんな方の支えや応援などもあり、何とか踏ん張ってきて、ここまでやってきてよかったなって今は正直思っています。
――長い競技人生を振り返り、競技に対して「あの時に自分の中で何かが変わった、あるいは何かを変えた」というきっかけのようなものはありますか
今所属している岐阜日野自動車スキークラブに入り、日本で指導を受けている、現在東海大学でスキー部のノルディック顧問をされている森(敏)さんという2大会五輪に出場している元ノルディック複合の選手、その方との出会いが一番大きかったと思います。
――森氏からはどのような面で影響を受けたのですか
当時、森さんが中京大学の大学院にいらっしゃって、岐阜と愛知でそんなに離れてもいなかったので、冬の競技会場で「春になったらうちのスキー部に遊びに来てもいいよ」、「学生も社会人が来たら刺激になるだろうし」という感じで声をかけていただきました。自分の所属チームは基本選手だけで、所属先のチームの専属のコーチや監督とかがいるわけではないので、外部の方にお願いしてちょっと見てもらいお世話になっているという形を選手それぞれが取っています。それで、当時岐阜にいて指導に来ていただけそうなコーチが近くにいなかったですし、声をかけていただいたご縁もありましたので、ちょっと行ってみようかなと思いました。そこから「世界と戦うには」という心構えだったり、技術の面だったりとか色々話しをしていく上で、「もしかしたらこの方のもとだったら大きく変われるかもしれない」と思ったのがきっかけで、そこからずっとお世話になっているという形でしたね。
――今回の銅メダルで森さんから何か言葉をいただきましたか
そうですね、「おめでとう」といただきました。
――新型コロナウイルスで良くも悪くも自身に影響したことはありますか
やはりコロナの影響で観客の入場制限があり、結局現地の人しか入場できなかったので、ちょっとオリンピックにしては寂しいなという印象ですね。それと連日のPCR検査をパスしないと、陰性を獲得しないとその日その試合に出場できず、違ったところで足元をすくわれる可能性もありました。そこは神経を使うわけではないですが、いつもと違う心配事が1つできたというか、(心配事が)できる要素でもあったのかなと思います。それでもそれはみんな一緒ですし、自分が出来る最大限の予防策をしていました
――北京大会はどんな大会になりましたか
僕にとっては、競技人生で最高のオリンピックになったのではないかなと思います。
――夢や目標を抱いている学生に向けてメッセージをお願いします
僕も長い時間がかかりましたが、ようやく夢にまで見たメダル獲得というところに手が届きました。100パーセント叶いますとは言えないですけど、でもそこに向かって一生懸命取り組んだことには本当に無駄なことはなかったなと思っています。その結果僕の場合はたまたまその目標だった、夢だったことを達成できたのですが、そこに取り組む姿勢やその取り組んだことには間違いはないと思うので、それを信じて、また自分を信じて突き進んでください。
――ありがとうございました!
(取材 湊紗希 編集 堀内まさみ 写真提供 共同通信社)
◆永井秀昭(ながい・ひであき)
1983(昭58)年9月5日生まれ。170センチ。岩手・盛岡南高出身。2022年北京五輪、ノルディック複合個人ラージヒル31位。ノルディック複合団体銅メダル。インタビュー時はフィンランドにいらっしゃった永井選手。北京から帰国して日本に滞在されたのはわずか2日間、ほぼ荷物の整理で終わったそうです!