「人生の転機」
1年の集大成である全日本学生選手権(インカレ)で男子総合優勝を果たした早大スキー部。歓喜の輪の中心で胴上げされていたのは、チームの主将、吉田圭汰(スポ=北海道・北海学園札幌)だった。
スキーの盛んな北海道紋別郡遠軽町に生まれた吉田は父親の影響で幼いころからスキーを始めた。物心のつく前からスキー場に連れられ、初めはご褒美のドーナツを目当てにスキー場に行っていた少年が、いつしか「滑っている数十秒間だけは1人が主役でいられる」アルペンスキーの虜となり競技としてスキーを始めることになる。全国中学校総体で7位に入り、全国トップスキーヤーの仲間入りを果たすと、その後も着実に力をつけ、高校2年時には全国高校総体で4位、高校3年時にも6位と全国大会で結果を残す。そして進学先は迷わず、憧れの早大を選んだ。
順風満帆のスキー人生。大学入学後は、さらに上を目指しトレーニングに励んだ。1年時のインカレ、アルペン男子大回転で14位に入った期待のルーキーには、当時学生トップレベルの実力を持っていた松本達希(平30スポ卒=北海道・札幌第一)や廣島聖也(平29スポ卒=北海道・双葉)、清野嵩悠(平28社卒=山形中央)ら先輩たちの後に続く存在として期待を寄せられた。だが、そこから彼の苦闘が始まる。それまで大きな挫折もなく、楽しくスキーをやってきた吉田にとって考えもしなかった厳しさだった。どれだけ自らを追い込み、トレーニングをしても結果が伴わない。これでもダメかと、よりハードなトレーニングで自らを身体的にも精神的にも追い込んだ。一時は自らに対する徒労感から生じるバーンアウト症候群の様な症状にも陥った。大好きなスキーをすることさえも怖く「大会が嫌いになった」。スキー選手にとって最も辛い期間である夏のトレーニングにも意味を見出せず、自分自身に疑心暗鬼になりながら過ごした。
インカレの自身最終種目となったアルペン男子回転
そんな中迎えた、3年時のインカレ最終日。「来年はお前に任せたぞ」。尊敬する先輩たちや監督から来季の主将に任命された。これまで人の上に立ち、集団を引っ張っていく経験がなかったため、戸惑った。さらに吉田自身、大学に入ってから納得のいくレースができていなかったこともあり、「本当に自分でいいのか」と学生スキー界の王者である早大スキー部の主将を務めることへの葛藤も生まれた。しかし、「主将という立場になった以上、自らの背中で引っ張っていくしかない」、そう決心し、試行錯誤しながらも自分らしい主将像を探した。それまでは努力している姿を人に見られるのが嫌で、1人で黙々と練習をすることが多かったが、敢えてチームメイトの前でも練習に取り組むようにもなった。その中で、1人で行っていた時にはできなかった新たな発見も生まれた。4年時のチームスローガンとして決めた『Re:start』には自らの『再出発』の意味も含まれていたのかもしれない。
インカレ後、一戸剛監督(平11人卒=青森・弘前工)は「彼なりにすごく色々なことを感じながらやっているのを(自分も)感じていた。彼にはまとめる力がある。この経験が今後の人生に必ず生きてくる。1年間よくやってくれた」と吉田を讃えた。『Re:Start』というスローガンの名の通り、インカレでは男子総合優勝へと導き、名実ともに新たな、強い早大スキー部を作り上げたのだ。就任当初は、「正直(主将は)やりたくないと思っていた」そうだが、今では「(主将という立場を経験できたことは)競技人生で一番の転機」と捉える。「自分が変わった」。この一言が示す通り、最終学年で個人としての大きな結果を出すという目標は叶わなかったが、主将として常勝軍団をまとめ上げていく中で、競技者としてはもちろん、ひとりの人間として大きく成長することができたことは間違いない。主将という立場が、チームだけでなく吉田自身を成長させたのだ。
ラストランは、これまでお世話になった遠軽町、そして先生たちや家族に姿を見てもらうため、地元でのレースに決めた。ファーイーストカップ・遠軽杯、アルペン男子回転種目34位。海外の実力者なども参戦する大会ということもあり、結果は完全に納得のいくものではなかったかもしれない。しかし、結果だけでなく自分らしい滑りで感謝を伝えたかった。そして吉田はこのレースでスキー競技の一線を退いた。
卒業後は母校でスキーを教えながら、教員として新たなスタートを切る。ここまで精神的、身体的にも苦しんできたにも関わらず、今後もなおスキーに関わり続けたいと考えるのは、何より吉田自身がスキーを愛し、スキーに真剣に取り組んできたからに違いない。目指す指導者像は幼少期に所属した遠軽ジュニアアルペンスキークラブの監督で、自らが恩師として仰ぐ梅田辰巳氏だ。吉田の原点ともいえるこの遠軽ジュニアでは、スキーはもちろん、人として多くの事を学んだ。その教えを今でも大切にし、主将を務めた際には、挨拶や礼儀など基本的な部分からチームの意識改革を進めた。同様に指導者としても「梅田先生のようなメリハリのある先生を目指す」。自身の叶わなかった日本一、そして世界への挑戦という夢はいつか自らの教え子に託す。
(記事、写真 斉藤俊幸)