アイスホッケープロチームであるH.C.栃木日光アイスバックスの運営会社で取締役を努める土田英二氏(平8人卒)と、過去最高の世界5位を記録したアイスホッケー女子日本代表でゴーリーコーチを務める春名真仁氏(平8理卒)は、共に早大スケート部ホッケー部門でプレーした盟友だ。来春、スケート部ホッケー部門が100周年を迎えることを記念し、アイスホッケー界を率いるOBの対談を行った。前編は、早大生の4年間を振り返る。
※この取材は9月17日に行われました。
――他己紹介をお願いいたします
土田 春名真仁(はるな・まさひと)さんです。釧路湖陵高校の出身で、(高校の)評定平均4.9。家庭科だけ4を取ったんだっけ?
春名 よく覚えてるな、俺が覚えてないのに(笑)。
土田 大学4年間を一緒に過ごして、卒業後は古河電工(古河電工アイスホッケー部)に入団、そのチームが日光アイスバックス(HC日光アイスバックス、当時)になり、その後、海外挑戦をし、その時に僕も日光に移籍しました。そのあと、「これから一緒に頑張っていこうぜ」っていうときに春名は王子(王子製紙アイスホッケー部、現レッドイーグルス北海道)に移籍をして。でもまた最後にアイスバックスに帰ってきてくれて、一年間、プレーをして現役を引退、今は日本代表のゴーリーコーチをやっています。
春名 引退後なので6年くらいかな。
土田 その間にオリンピックに2回出場しています。
春名 所属は日本アイスホッケー連盟です。
土田 そんな、春名さんです。
春名 土田英二(つちだ・ひでじ)です。苫小牧東高校を出まして、僕と同期。早稲田大学人間科学部スポーツ学科。アイスホッケーのスポーツ推薦としては、その時スポ科は一人で。期待のルーキーとして早稲田に入り、1年目からすごく活躍しました。僕たちは優勝がなかったんですが、個人賞ではなんどもポイント王を(取りました)。チームのポイントリーダーで4年間活躍して、僕も未だに顔を合わせる数少ない友達の一人です。4年生の時は同じ部屋で…この話はおいおい出てくると思います(笑)。
――高校生の時は面識はありましたか
春名 高校の国体の合宿みたいなので初めて顔を合わせて。高校3年生の本当に後半の方に、お互いに「早稲田行く」っていう話になって。受験前に。川口(川口寛氏、平8社卒)もPhoenix Cupで会って、川口も受けるってなって、3人で「早稲田を強くしよう」って。その時は爽やかでしたね(笑)。で、大学卒業後、英二(土田)は西武鉄道に入って、最初海外挑戦をして。イーストコースト、マイナーリーグに挑戦します。ただプレーオフに戻ってきて大活躍して、チームのリーグ優勝に貢献しています。日本代表で何度か一緒に戦うことはあったんだけど、一緒のチームで戦うことはなくて。彼が言ったように、1年だけバックス(日光アイスバックス)で一緒にプレーして。最終的にはバックスで引退。その後、すぐにバックスのフロントスタッフとして…あの時(の役職)は?
土田 広報だったんだよね。
春名 で、そこから広報、GM、今は取締役としてバックスをけん引していると。今のバックスが安定しているのも、土田取締役の働きがあると思います。(現在)クラブチームになって23年で、僕が居たときはかなり厳しい経営でした。経営陣として、今のバックスの安定感に一番貢献した方だと思います。
「親父から『早稲田に行けるんだったら断る理由はなにもないぞ』と言われて」(土田氏)
丁寧に語る土田氏
――早大への進学を選んだ理由は
春名 僕の場合は、内藤さん(内藤正樹総監督、平3二文卒=北海道・釧路湖陵)と土田さん(土田健一氏、平4人卒)、柴田さん(柴田浩伸氏、平4社卒)って、僕の高校から早稲田に入られた方が高校生の時に居て。僕の高校はあんまり強くなくて、人数も少ないんです。夏休みには必ずOBが乗って(練習に参加して)くれていました。その時に、内藤さんたちから「お前、早稲田に来い」と。1年生の時から言われて。
――年齢は離れていますよね
春名 そうですね。歳は上ですけど、まだ現役でやられていたので。柴田さん、内藤さんに「お前、ユニバっていうのがあって。お前はユニバーシアード(現世界ユニバーシティ大会)行けるよ」と。あんまり良く分かんなかったんですけど、「俺、ワセダ行って、ユニバ行きます」って、暗示にかかっちゃって。それからですね。その3人の影響は大きいです。
土田 僕は、ホッケー選手になりたくて、カナダ留学も考えていたんです。そんな中、早稲田の中野さん(中野浩一氏、昭54教卒、当時の監督)から「受験しないか」という話を頂いて、そこで親父から「早稲田に行けるんだったら断る理由はなにもないぞ」と言われて。六大学とかはあんまりよく分からない、片田舎の高校生ですから。受験させてもらって、受かって。
大学3年時の土田氏。1994年12月15日発行、関東大学リーグ戦についての記事より(早稲田スポーツ
――早大スケート部ホッケー部門に入る前と、入った後の印象の違いはありましたか
土田 僕は、実家を早く出たかったんです。期待がすごくありました。
――今以上に、早実生や一般受験の学生がいて、多様な空間だったのではないでしょうか
土田 (戸惑いなどは)全然ないです。むしろすごく面倒を見てもらって、ホッケーのうまい下手での上下関係はなかったです。
春名 本当にリスペクトしていましたし、北海道出身じゃない人たちからいろいろなことを聞いたりして。「世の中ってすごく広いなぁ」って。東京の人も、名古屋の人もいて。面白かったです。湖陵(釧路湖陵高)自体は人が少なくて野球部から選手を借りていたような環境で、みんながみんなホッケーがうまいチームではなかったですし。早稲田って、早実の人も、高校から始めた人も、そういう人の頑張りがチーム力をつくっているような気がするので、引っ張られることはありますよね。浪人してまでホッケーをやりたい、って入ってくれる人も居ますし。
土田 同期に三浪もいたよね。
春名 そうですね。高校の2個上の先輩が、大学で同期入部して、「タメ口でいい?」って言っちゃいました(笑)。(現在)レフリーをやっている北山(北山秀之氏、平8人卒)。不思議な感覚でしたね。
土田 先輩たち、ダメなものはダメってきちっと言ってくれたよね。それはありがたかったですね。
――4年間の大学生活の中で、一番思い出に残っている試合は
土田 4年生最後のインカレ(日本学生表情競技選手権)で負けた時の、川口寛のキレっぷりだよね(笑)。
春名 やっぱりあれは(印象に)残るよね(笑)。アイシングなのに、(レフリーが笛を)吹かなかった。後からアイシングって認めたんだけど、吹かなかったからミスジャッジとして、真ん中からスタートで。「6人攻撃あんだけ練習したんだ!」って。「俺たちはあの時間があったら追いついてた!」って彼(川口氏)は断言しました。僕はもう最後の4秒はサバサバしてたので。僕が失点していて、負けたので、わりと「俺のせいだな」って受け入れていたんですけど、そういうことは言い出せない雰囲気でした(笑)。
土田 相手は明治か。
春名 僕の印象に残っている試合は1年目の秋の早慶戦ですね。初めて出場して。結構いい勝負になって。春は出ていないので。
土田 春は、早慶戦の前日に春名と一緒に渋谷に買い物に行って、人に酔って具合悪くなって(笑)。
春名 そんなことしてたからだ…。第1ピリオドが始まってすぐ2点取られて焦ったっていうのを覚えています。初めて早慶戦に出て、雰囲気がすごくて。
――当時の早慶戦はリーグが始まる前、9月ですよね
春名 9月ですね。
――小堀恭之氏(平4人卒)・荒沢義寛氏(平4人卒)・桝川浩司(平4人卒)の「三羽烏」が抜けたタイミングでの入学で、弱体化が懸念される時期でした。お二人の入学はチームにとっても救世主となったのではないでしょうか
春名 僕は先輩に引っ張られてやっていた感じなので、全然弱いとは感じませんでした。僕はあまり戦力として数えられていなかったと思います。ただ英二と寛は、超高校級だったので。僕は春は出ていないですし。
土田 (春は)仲見さん(仲見真樹氏、平6人卒)だね。
大学4年時の春名氏。1995年5月27日発行、関東大学選手権についての記事より(早稲田スポーツ)
――寮での思い出はありますか
春名 4年生の時に、初めて英ニと同じ部屋になったんです。4年生が部屋を決めるんですけど、仲が良かったのもあって、同じ部屋になったんですけど、僕たち「離れ」で。長屋に、1つだけ離れがあったんです。離れはちょっと広いんです。さすがに2人じゃ取れないので、「3人で住むから離れにしてくれ」って言って、1つ下の星野力哉(平9社卒)を巻き込んで。
土田 人数が多くて3人で入るしかなくて。
春名 でも3人でベット置くと大変なので、じゃあ三段ベッドを買いに行こうと。今度は場所の取り合いで。力哉は問答無用で一番上なんですが(笑)。くだらないことなんですが。僕たちはあんまりゲームもやらなかったので。
土田 なにやってたんだろうね。雑誌読んでみんなでワイワイ。
春名 大丈夫ですか、感動するような話もないんですが(笑)。
――合宿中、お二人で漫才をされていたと聞きました
春名 まあ、やらされてたんですね(笑)。どっちがボケだと思います(笑)? でも結構一生懸命やっていました。当時、合宿の毎日の朝食時に1年生が面白いことをして雰囲気を作る風習がありまして。
土田 あれ、いつからやってるんだろうね。
春名 今はやってないだろうね。
――堤広利監督(平10人卒=東京・早実)は、現役時代どのような方でしたか
春名 僕たちが3年生の時の1年生ですね。英二と広利(堤)とよく、スキーに行ってたんです(笑)。
土田 広利もスキー好きだったからね。
春名 真面目な印象はありますね。(入る前は)どんな子なんだろうと思っていましたが、素朴で。寮費滞納者がホワイトボードに出るんです。僕はよく滞納してたんですけど(笑)。堤くんも、出てた。「春名、堤」。よくありました(笑)。
土田 ここにきて監督を受けるというのは、アイスホッケーの情熱を秘めてたんでしょうね。
春名 娘さんがゴールキーパーをやっていたので、スクールでちょっと教えることがあって。パパとしてビデオをずーっと(撮っていました)。そのころからアイスホッケーからは離れていないですし、ホッケーに対する情熱をずっと持ち合わせているんだろうなと。
「早稲田に入ってなかったら、その後アイスホッケー選手になってなかった」(春名氏)
当時を思い出して語る春名氏
――4年間の部活動を一言で表すと、どのようなものでしたか
土田 「楽しかった」ですね。でも一度も優勝できなかったという後悔は残っています。僕らに対して、「優勝という経験に連れて行ってくれるんじゃないか」という仲間の期待の中でそれを果たせなかったのは申し訳なかったなと思っています。
――その後の原動力には…
土田 なってないですね(笑)。それはそれ、です(笑)。
春名 僕は、早稲田に入ってなかったら、その後アイスホッケー選手になってなかったと思います。高校の時はアイスホッケー選手になるつもりはなかったので。
土田 (アイスホッケー部に)入るなって言われてたんだよね?
春名 指定校推薦だったので、成績が悪いと指定校推薦がなくなるじゃないですか。なので、体育会はやめてくれと、高校の先生から言われていたんです。ただ、僕が早稲田に入った動機はアイスホッケーをやりたいなというのがあったので。多少迷いはしたんですが、それを伝えたら中野さん(当時の監督)とかが「学業優先でいいから」と、環境を整えてもらって。理工学部の学生がいなかったので。
土田 そこはみんな理解があったよね。
春名 「授業あります」って(笑)。実験があると、試合前のウォームアップしている時に帰ってきたりとかもありました。そういう助けがあったり、中野さんからも「バタフライスタイル」というのを間接的に教えてもらったりして。それが本当にベースです。
――バタフライスタイルは中野元監督から教わったものなのですか
春名 大学1年生の時に、フランソワ・アレール(GKコーチ)が初めて来日し、中野さんが仲見さんとフランソワのスクールに行っていたんです。中野さんは几帳面なので、全部教わったことを、ほぼ完璧にトレースして僕たちに教えてくれて。その時にプロ選手だった選手たちは「こんなのやれないよ」って言ったんですけど、柔軟な学生の方が取り入れて。高校生とか。そこで最初は間接的に中野さんから聞いて。次の年にフランソワに習いに行ったら、中野さんが言っていることそのままで。「やっぱりすごいな、中野さん」と思いました。それがなかったらアイスホッケー続けていなかったと思うので。ただ、思い出はアイスホッケーよりは寮での暮らしとか、同期、先輩、後輩。ホッケー以外が楽しかったことしか印象がないです。
――プロになってから、他チームの選手なども含め、早稲田のアイスホッケー部のつながりを感じることはありましたか
土田 同期がいたので。川口がコクド(コクドアイスホッケー部)にいて、僕が西武(西武鉄道アイスホッケー部)にいて。たまに日本代表で会って。なんとなく意識はしますね。
春名 特に、入った年の2年後に長野オリンピックがあって、ずっと候補に3人共入っていたので、励まし合いながら。最終的には川口寛だけが入ったんですけど、最後の方あたりに(落ちて)。
土田 僕は結構早かったよ。日系人が来たあたりで。
春名 そうか。ただ、川口が入って良かったなと思います。僕たちの同期として、オリンピックに出るのもすごいなと。その後も、早稲田の学生はずっと代表とかに居て、早稲田の学生が代表チームの半分くらいの時もあったので。西脇(西脇雅仁氏、平17社卒、ひがし北海道クレインズなどでプレー)とか、小原(小原大輔、平16社卒、現東北フリーブレイズ)とか。久慈修平(平22社卒、現レッドイーグルス北海道)とか。ただ、早稲田らしいカラーはありますね。先輩後輩でもカチッとしないで、フランクに話せる感じとか。そういう良さはあります。どこか早稲田を意識してるけど、群れにはならないという。
土田 すぐ固まる大学もあるね(笑)。
春名 今、なかなかプロ選手も少なくなってきたので、推薦の制度の難しさもあると思いますが、すこし寂しいですね。早実(のアイスホッケー部が)なくなるともっと厳しいですよ。元々早稲田、スポーツ推薦で半分取れるわけではないので、早実生はすごく重要なファクターなんですよね。
――後編へ続く
(取材・写真・編集 田島璃子)
◆春名真仁(はるな・まさひと)(写真左)
1996(平8)年理工学部卒。釧路湖陵高出身。早大スケート部ホッケー部門でプレーした後、古河電工アイスホッケー部に入団。チームの解体、プロチーム化により、HC日光アイスバックス(現H.C.栃木日光アイスバックス)に設立時より入団。海外挑戦の後もアイスバックスに復帰し、2006ー2007シーズンより王子製紙アイスホッケー部(現レッドイーグルス北海道)に移籍。2015ー2016シーズンには再びアイスバックスに移籍し、翌シーズンに引退を発表。現在は日本アイスホッケー連盟に所属し、ゴールキーパーの指導に尽力する。あだ名はハルピン
◆土田英二(つちだ・ひでじ)
1996(平8)年人間科学部スポーツ学科卒。苫小牧東高出身。早大スケート部ホッケー部門でプレーした後、西武鉄道アイスホッケー部に入団。2003ー2004シーズンにHC日光アイスバックス(現H.C.栃木日光アイスバックス)に期限付き移籍をし、翌シーズンに残留。2008ー2009シーズンには主将を務める。2010-2011シーズンをもって引退し、以後はスタッフとしてチーム経営に関わる。現在は運営会社である株式会社栃木ユナイテッド取締役兼チームディレクター