誠実に一歩ずつ
「誰かの心に残る演技がしたい」。中塩美悠(人通=広島・ノートルダム清心)は、はっきりとした言葉で信念を口にした。揺るぎない口調は、中塩の強さの象徴。選手生活は決して楽な道のりではなかったが、歩みを止めることなく滑り続けてきた。好調なときもそうでないときも、ひたむきに競技と向き合い続けた中塩の軌跡を振り返る。
バレエやフィギュアスケートの鑑賞が大好きだった母親の影響で、中塩はフィギュアスケートという競技に出会った。ジャンプを飛ぶのが楽しいと滑り続けるうちに、いつしか上に行きたいという思いが芽生えた。ようやくチャンスを手にしたのは高校3年生のとき。幾度となく参加してきた選考会をはじめて通過し、国際大会であるジュニアグランプリシリーズへの出場を決めたのだ。掴んだ切符で強く羽ばたいた中塩は、思い描いたシナリオを完璧に再現した。好成績の1戦目で希望を繋ぎ、続く2戦目では映えある優勝を飾った。目標だった最終決戦・ファイナルにまで駒を進める大躍進を見せたのだ。
高校を卒業した中塩は、早大の通信課程に進学。通信生ながら、スケート部に入部を決める。練習場所や時間などの自由度が高まることに加え、全日本大学対抗選手権に出場できるという利点を考慮してのことだった。「全国規模の試合に1個でも多く出られるのは、今後の人生にもすごい関わってくることだと思うので、その機会をいただけたのはよかった」と中塩は振り返る。部としての練習時間を持たずに選手個々で力を伸ばし、試合で集まってエールを送りあうのが早大フィギュアのやり方。キャンパスから離れて生活していても、疎外感を味わわず部に馴染めるのだという。
中塩が次なる練習拠点に選んだのは、アメリカ。トレーニング方法が合わず、体に負担がかかりすぎたために大学2年になる頃には帰国したが、過ごした日々は充実していた。何より刺激的だったのは、同じリンクで練習していたジェイソン・ブラウンの存在。間近で目撃した素晴らしい振り付けに惹かれ、ブラウンと同じ振付師であるロヒーン・ワードにプログラムを作ってもらうことが一つの夢になった。ブラウンから学んだことは滑りについてのみではない。中塩が目撃したのは、滑走中に接触があればどんなに小さな子供にもきちんと謝罪する丁寧さ。当時男子シングル全米王者であったトップスケーターの謙虚な姿勢に、感動をおぼえた。渡米前に中塩が拠点としていた広島には、通年で使用できるリンクがなかった。夏になると練習場所を求めて岡山のリンクまで足を伸ばしていたが、そこは中塩と似た境遇の選手たちでいっぱい。あまりの人の多さ故に険悪な雰囲気が流れ、自分自身それに飲まれてしまうこともあった。この頃をアメリカでの経験と照らしながら、「すごい子供っぽいなと思った」と中塩はこぼす。リンクの雰囲気作りの大切さを認識し、今後の糧にすると誓った。
帰国後、中塩は兵庫県西宮のリンクで練習を重ねた。取り組んだのは、おろそかにしていた基礎の徹底。「画家が絵を描く技術を得たみたいな感じ」と中塩は言葉を紡いだ。根底がしっかり固まったおかげで、スケートが自己表現のツールになったのである。ジャンパーだった中塩が、表現の世界に一歩深く足を踏み入れた。これまではただ楽しそうな雰囲気で滑るだけだったが、身につけた正しい技術がさらに細やかな表現を可能にした。
相次いだ故障により試合を棄権する、ジャンプの制限を抱えるなど辛い出来事も数多く経験したが、特別大きな壁が立ちはだかったのは3年時の冬であった。全日本選手権でショートプログラム(SP)28位に沈んだ中塩は、フリースケーティング(FS)進出を逃したのである。人生初の出来事だった。「スケートに行く意味が、もうよくわからなくなっちゃって」と中塩は当時の心境を語る。それまでにないほど滑り込んで迎えた大会。この結果は、衝撃的だった。自身で設けた現役引退までの期限はあと1年。次のシーズンで良い成績を残したとしても、繋がる試合はない。スケートという競技への向き合い方を模索する日々が始まった。
諦めることなく考え続け、辿り着いた思いはひとつ。「誰かの心に響く選手になりたい」。ただ綺麗なものよりも、もっと人の心に届く演技。言われた通りに滑るだけでは表現しきれないものを伝えたい。大きな目標が定まると、道は次第に明るくなった。考えることも、練習内容も次々に変わる。中塩は、「自分のスケートに対する思いや情熱が伝わる演技こそが人の心を揺さぶる」とまっすぐな目で信条を語った。
語りかけるように丁寧な表現が観客の胸を打つ
大学入学時にはすでに選手引退を意識していた中塩は、自分の夢を叶えるプログラム作りを始めていた。宮本賢二による『マンボ』、佐藤操による『ラプソディー・イン・ブルー』。憧れの2人の振り付けを滑り切り、いよいよ現役最後のプログラムを選びにかかった。SPにはあのロヒーン・ワード振り付けの『Time to say goodbye』。アメリカで見た夢を見事に実現した。そしてFS『タイタニック』は、大好きなスケーターである鈴木明子に依頼した。中塩がさらなる高みに到達したのは、この『タイタニック』練習中のことだ。「あっこさんの演技は涙が出る」と話すように、中塩は鈴木の滑りの大ファンだった。憧れの選手としてこれまでにも名を挙げてきた、鈴木による振り付け。鈴木のような表現がしたいと練習に励んだ中塩に、林祐輔コーチが声を掛ける。「あっこに振り付けてもらったけど鈴木明子として滑らなくていい、中塩美悠として滑っていいんだよ」。西宮に移ってからずっと師事してきたコーチの言葉は、中塩の胸に響いた。「そこからは、誰かの真似をしなくてもいいのかなって思うようになった」と明るい表情で振り返った。他の誰のものでもない、中塩美悠の表現。中塩だからこそ伝えられる情熱で、プログラムの中をいっぱいに満たした。その熱量に、数多くの観客が感動の涙をにじませた。
順風満帆にも思えた選手生活は、一筋縄ではいかなかった。怪我をしたこと、結果が出なかったこと、道を見失いそうになったこと。しかし、それらは悪い思い出ではない。あらゆる経験を吸収するたび、中塩の演技はいっそう華麗に咲いた。どんな出来事にも屈さないその強さが、中塩の美しさの源だ。これから中塩は選手生活を離れ、新たな舞台へと滑り出していく。現役最後の試合会場は、名残を惜しむファンや選手たちで溢れた。割れんばかりの拍手と声援が、中塩の行く先を照らすように暖かく響いていた。
(記事 犬飼朋花、写真 青柳香穂、尾崎彩)