ヨットと出会って人生が変わった
島本拓哉(スポ=千葉・磯辺)。全日本学生選手権(全日本インカレ)で念願の連覇を達成した早大において、この男の存在は欠かせなかった。スナイプ級のエースとして長くチームを引っ張り、国際大会にも2度出場したチームの大黒柱だ。在籍した4年間、ヨット部に大きな力を与えた島本。一方で、島本は4年間で何を経験し、何を力に変えたのだろうか。最高の環境で過ごした時間がもたらしたものは、濃く、深い。
千葉・磯辺高校でヨットを始めた。友達と訪れた試乗会で惹かれるものがあったという。当時の顧問が、早大・関口功志監督(平18人卒=愛知・半田)と大学ヨット部での同期だったこともあり、比較的早くから早大進学を意識し始めた。冗談半分、まだまだ初心者の頃からの目標だったが、高校3年間で着実に実力を伸ばし、スポーツ推薦での早大入学を勝ち取った。
スナイプ級のリーダーとして、存在感を見せつけた島本(左)
早大入学後もその実力をいかんなく発揮。2年時から安定して試合に出場した。9月には先輩の櫛田佳佑(平25社卒=東京・早大学院)と共に、ブラジルで行われたスナイプ級ジュニア世界選手権で準優勝を果たし、順調にステップを刻む。3年時は一時不調に陥るも、関東学生個人選手権で優勝して調子を立て直すと、今度はアメリカで行われたスナイプ級西半球・東洋選手権に出場。ブラジルでは、成績を上げるにつれて変わる周囲の目に言いようのない嬉しさを覚えた。しかし、ここでは「とにかく辛かった」と語るように、レベルの高い試合からレーステクニックの重要さを噛みしめることとなった。環境も日本とは異なる国際舞台を2度経験し、その過酷さもあいまって大きな経験を得ることになる。そして秋には全日本インカレで、主力メンバーとして完全優勝を勝ち取った。
迎えた最終シーズン。スナイプリーダーとして、チームへの意識は明らかに変わった。「自分一人が速くてもインカレでは勝てない」。3年間で実感した思いから、多くの選手に話しかけるようになる。試合に出る選手、出ない選手、さまざまな対話をすることでチーム作りに尽力した。それでも、「すごく苦しい一年だった」と自身も振り返るように、春先はチーム全体が停滞してしまう。6月の同志社定期戦に勝利しようやく不調を抜け出すと、夏の間に自身もチームも一気に成長。だがその矢先、島本のクルーを務めていた清原駿(創理3=東京・早大学院)が病気により離脱。島本は艇として調子を落とすこととなり、完全に周りを見る余裕が無くなってしまった。それでも、平川竜也(スポ3=神奈川・逗子開成)と、永松礼(スポ2=大分・別府青山)の艇にもサポートされ、再び復調。最後の戦いである全日本インカレを制し、チームとして有終の美を飾った。島本自身の結果は満足いくものではなかったが、スナイプリーダーとして、地道なチーム作りが優勝をもたらした。
「高校のときにヨットと出会って人生がすごく変わった」。高校で努力する楽しさを実感。大学でチームスポーツとしてのヨットを通して、皆で目標を目指す楽しさを、また実感。卒業後の進路は未定だが、ヨットを続け、全日本選手権での優勝を目指すという。また母校での指導も視野に入れている。高校時代、多くの先輩に指導してもらった。その恩返しの意味も含めて、自身も後輩の指導をしていくつもりだ。「僕の高校からインターハイチャンピオンを出す、って記事に書いておいて下さい」とおどけた。ヨットと出会い、向き合い、全ての経験を余すことなく成長につなげてきた。そんな島本はこれからもヨットに関わり続けるつもりだ。どんな経験が待っていても、島本は必ずそれを力に変える。
(記事 喜田村廉人、写真 菖蒲貴司)