【連載】ラグビー卒業記念特集『雄飛』第2回 小沼宏太

ラグビー男子

赤黒のスタメンをつかむまで

 全国大学選手権準々決勝の明大戦、早大の1番を担うのは小沼宏太(スポ=茨城・清真学園)。一浪を経てトレーナーとして入部し、翌年選手としてSO/CTBで再入部。そこから紆余曲折(うよきょくせつ)を経て、赤黒のプロップを勝ち取った。そんな小沼が歩んだ早大ラグビー蹴球部での苦節の5年間に迫る。

 ラグビーを始めたのは物心がつく前の3歳のころ。ラグビー経験者である父の影響で始め、気づけばラグビーの虜(とりこ)に。中学、高校は父の母校でもある清真学園中高に入学した。しかし、地元・茨城の強豪である茗渓学園高に負け、一度も花園出場を果たせないまま中高を終える。 

 その後浪人を経験する小沼。当時は地元の国立大学以外でラグビーをすることは考えていなかった。だが、早大を受験したのは憧れがあったからだ。2017年、見事早大に合格したものの、選手ではなくトレーナーの道を選んだ。浪人を経たことにより、選手として活躍する姿が想像できなかったのである。そんな小沼を選手としての道へ駆り立てたのは、トレーナー時代のとある試合だった。新人早慶、早明戦において、ウォーターボーイについた小沼だったが、その際に同期の選手たちがラグビーをしている姿にうらやましさを感じたのだ。しかしこの時点では、自分がラグビーをする姿は思い描いていなかったという。大きな転機となったのは、夏合宿の帝京大戦。この試合において、早大は0ー82の大差で敗北した。またもやウォーターボーイとして試合を近くで見た小沼は、「本当に日本一を目指すチームなのだろうか。僕自身が選手だったらもう少し何かできたのでは」ともどかしさを感じた。この気持ちを解消すべく、選手としての挑戦を決断したのである。 

 2018年春、小沼は選手としてラグビー部に再入部をする。同期の選手が2個下になり戸惑うこともあったが、周りの選手に支えられさまざまな困難を乗り越えられたという。選手として入部し5カ月ほどが経った秋、小沼のラグビー人生において大きな転換点が訪れた。SO/CTBからフランカーへの転身。当初は希望したポジションではなく、絶対にやりたくないと思っていた。それでも「バックスのときよりも上のチームに上がることができるのでは」と希望を見い出し、ポジションを変更。フランカー、フッカーとたどり、プロップに移したのは2019年、小沼が選手として2年生のときに行われた新人早慶戦である。相良南海夫前監督(平4政経卒=東京・早大学院)に突然「プロップで試合に出てほしい」と言われ、気づくとプロップに固定された。バックスからフォワードに変わり他の選手から体格で劣る中で、任されたのはスクラムの最前線であるプロップ。予期せぬポジション変更に「どうやったら上に上がれるのだろうか」と悩んだ1年間と振り返る。3年生になると、それまでのC、Dチームから徐々にBチームに呼んでもらえるようになる。しかしBチームの練習相手はAチーム。ただでさえプロップとしては体重が軽い。その上、スクラムでの対面は小林賢太(スポ=東福岡)という大きな壁が立ちふさがる。毎回の練習で力の差を感じ「練習が憂鬱だった」と話すが、この経験が4年生で赤黒をつかむ大きな土台となった。 

 苦労の日々を乗り越え迎えたラストイヤー、小沼に再び災難が降りかかる。左膝の前十字靭帯断裂。手術の選択肢もあるなかで小沼は自然治癒療法を選択した。他のライバル選手が活躍する中で募る焦り。「Aチームに上がれるチャンスはあるのだろうか」と日々悩み続けた。それでも赤黒を夢見て懸命にリハビリに取り組む。この小沼の努力をコーチ陣は見ていた。夏合宿前に復帰した小沼をBチームに抜擢(ばってき)。そこでも努力をし続け、関東大学対抗戦の第1節立大戦で念願の赤黒に袖を通す。そして初のスタメンとなった青学大戦ではトライをあげた。今までの努力が報われた瞬間だった。「本当にうれしかった」とほほえみながら語る。ケガを乗り越えた先の喜び。ラグビーの神様も小沼を見放さなかったのである。 

帝京大戦でラックを作る小沼

 激動の5年間を振り返り「やり残したことは何もない」と話す。もちろん『荒ぶる』を獲得できなかったことに対する悔いはある。一方で選手として入部する際に定めた「赤黒を着る」という目標をかなえ、想像を超える選手生活となった。今後は教師の道に進む。「子どもたちとラグビーを楽しくできる関わりを作りたい」この思いを胸に、第二の人生を踏み出す。多くのことを経験した小沼だからこそ、子どもたちに伝えられることはあるはずだ。今までの経験を糧に、慕われる教師になることを願ってやまない。 

(記事 森田健介、写真 早稲田大学ラグビー蹴球部広報チーム提供)