亀井が駆け抜けた4年間
大学ラグビーでは、試合中に監督ら指揮官はベンチにいない。そんな中、ベンチで黒いボードを片手に、審判らに交代を伝えるのは主務である亀井亮介(スポ=長野・飯田)だった。プレーヤーとして2年、スタッフとして2年の時を早大ラグビー蹴球部で過ごした亀井。昨シーズン、ベンチからピッチを見つめ続けた亀井の胸には一体どんな思いが広がっていたのだろうか。
入部当初は、最終学年になった時に自分が主務になっているとは思っていなかった。5歳上の兄の影響で小学1年生から始めたラグビーを高校まで続け、「チャレンジしたい」という気持ちから亀井は早大ラグビー部を志す。無事に早大合格を果たすが、どの選手も口にするようにこの年の新人練習の厳しさは群を抜いており、とにかく入部するのに必死だった。入部後も、なかなか出場機会を得ることができずに1年目のシーズンが終わってしまう。2年目では自らの感触が良かった春も上のチームに上がることはできず、シーズン後半には腰の痛みにも悩まされ、結果を残すことはできなかった。
日体大戦で笑顔を見せる亀井
3年時、副務決めという亀井にとって人生の大きな分岐点が訪れた。早大ラグビー蹴球部において、副務になることは4年時に主務の役割に就くことも意味する。選手と兼任して主務や副務の職務を全うした例も過去にはあったが、その仕事は多岐にわたるため、亀井の学年は副務決めの前に『副務になる人間は副務の業務に専念すること』を決めた。これはつまり、『副務になる人間はプレーヤーを辞める』ということだった。
「本当はプレーを続けたいという気持ちもあった」。亀井は副務決めの時の心境をこう話す。はじめは自分以外の人間が副務をやるのだろうと考えていたが、話し合いが進んでいっても自分の名前は候補に残り続けている。この時に初めて副務になることについて本格的に考え始めた。責任の大きさやチームに及ぼす影響力の部分で「自分に務まるのか」と不安も大きかったが、同期から「亀井に任せたい」と言ってもらえたことで亀井の心は決まった。
ここから、選手として過ごしたそれまでの2年間とは全く違う2年間が始まる。副務になって一番に感じたことはAチームの意識の高さだ。「副務になって寮に入りレギュラー陣の取り組みを見たら、練習外の部分で食事や過ごし方についても自分はまだまだ甘かったと感じた」と亀井は話す。また、スタッフ陣が見えないところで多くの職務をこなし、チームを支えていることも初めて知った。そして、3年時には大学日本一を経験。副務として日本一に貢献している実感を抱き、「自分たちが4年の時にも優勝しなければならない」と亀井は思った。
迎えたラストイヤー。亀井が目標としたのは「選手が全力で日本一を目指せる環境をスタッフでつくり上げる」こと。そのために、100人以上いる部員全員に目を向けることを意識した。「どうしても主力選手に注目が集まりがちだが、試合に出ていなくても1年生から4年生まで面白い選手がたくさんいる。そのような選手にも目を向けてもらえるとうれしい」と亀井は話す。しかし、新型コロナウイルスの影響で選手のアピールの場である春シーズンの試合は全て中止に。スタッフにとっても、秋シーズンへの準備期間であるこの時期に試合ができないことは悔しくもあった。
「やると決まった時は、本当に嬉しかった」。関東大学対抗戦(対抗戦)の開催が無事決定し、通常の業務に加えて、部員全員の大まかな健康状態を管理し、多くのメディア対応に追われる日々。それでも「自分が準備してきたところで選手が最大限の力を発揮して勝利をするというのが、僕の中では一番主務をやってきて良かったと思う場面」と確かなやりがいを感じながら、最後の4カ月はあっという間に過ぎていった。
選手としてがむしゃらにプレーし、主務としてチームのために奔走し、驚くべき早さで駆け抜けていった亀井の4年間。その立場のために、Aチームの選手、そうでない選手、スタッフ、監督、コーチ陣、O Bなど多くの早大ラグビー部の関係者と関わってきた亀井だからこそ知っていることが多くある。そんな亀井は今後について「一人のラグビーファンとしてラグビーを楽しみたい」と笑った。亀井はまた一つの分岐点を経て、今また新しい世界へと歩き出そうとしている。
(記事 内海日和、写真 細井万里男氏)