【連載】『平成30年度卒業記念特集』第65回 佐々木尚/ラグビー

ラグビー男子

「早稲田への決断」

 「究極の選択」ーー本人もそう語るほど悩み抜いた末、進学を決めた早稲田。その決断の裏には全国高校大会出場(花園)をかけた慶応高との戦いがあった。入学から様々な困難を乗り越えた大学ラグビー人生では、因縁の相手、慶応との試合が最後の勝利となった。そんな佐々木尚(社=神奈川・桐蔭学園)が卒部を迎える今、早稲田での四年間、早慶戦への思いを語った。

 親の勧めで幼稚園の年中頃から始めたというラグビー。「仲間の大切さを知り、絆が深まってきて、スポーツの楽しさ」を実感しながらプレーを続けていた佐々木尚に、大きな転機が訪れる。桐蔭学園に在籍していた佐々木尚は、古田京(慶応)らが中心選手となっていた慶応高に負け、花園出場を逃したのである。その時点で佐々木尚には慶応に行く道も残されていた。しかし、「一緒にやるというよりかは、この人たちを倒したいという気持ちの方が強かった」ということから、大学では赤黒のジャージを着て戦うことを決断した。早稲田進学への決め手は早稲田ラグビー部前監督、山下大悟(平15人卒=神奈川・桐蔭学園)からのアプローチだったと言う。当時の佐々木尚にとって、山下前監督は雲の上の存在であり、「筋としては慶応に行くべきだった」という気持ちを抑えるほどうれしい出来事であった。

 佐々木尚は、ラグビー部の新人インタビューで、「『荒ぶる』を歌えるように日々努力します」と話した。しかし、実際にはずっと遠い存在だったという。1年時には関東大学対抗戦(対抗戦)出場後にけがをし、2年時も山下前監督が考えた「新しいラグビー」の型に順応することができなかったのだ。最初の二年間は「来るところを間違えた」と思ったこともあったという。そんな自分を変えようと、2年生の終盤、山下前監督と面談し、「自分のダメなところ、なぜ出られなかったのかを正直に聞いた」。課題であった、周りと連動すること、自分ありきにならないことの克服を意識した練習の甲斐あってか、3年生時からは出場機会に恵まれるようになる。

全国大学選手権の慶応戦でゲインラインを突破する佐々木尚

 4年生で部の最高学年となったが、佐々木尚はシーズン序盤の東日本セブンズで膝をけがしてしまう。それは大きなけがであり、完治させたいという思いが強く、「あまり焦らずにしっかり治す」とチームに伝えたという。我慢の結果、無事試合にも復帰し、100周年という節目の年に伝統の早明戦で対抗戦優勝というタイトル獲得を決めた。その後に行われた大学選手権の準決勝で明治に敗れたため、くしくも佐々木尚が最後に勝利した相手は慶応となったのである。「また慶応に負けて全部が終わってしまうのだけは嫌だ、勝ちたい」という思いで臨んだ早慶戦。その一方、試合中は感情的にならず、今までやってきたことをいかに周りと連動しながら発揮できるかを意識していた。まさに佐々木尚の四年間の集大成と言える姿勢だった。この試合でのサヨナラトライを振り返り、「偶然僕があの位置にいただけ。色々な人の思いが表れたトライ」と表現した。「最後慶応に勝てたことで四年間が肯定されたような気もする」という言葉からも分かるように、「本当に早稲田に来て良かった」と感じた瞬間だった。

 この春卒部の4年生は、例年よりも人数が多いにも関わらず、団結力が強かった。そのことは、「試合中のベンチからのコールに本当に勇気付けられて、力になった」という言葉に象徴される。今後『早稲田ラグビー』を担っていく後輩に対しては、「年を越してラグビーをできる雰囲気を味わえたことは大きな収穫だと思うので、絶対に『荒ぶる』をつかんでほしい。その時は、今無名の選手をフィールドで見たい」と語った。佐々木尚は大学を最後にラグビーの第一線を退くが、「やるべきことを学んで成功させる」という抱負のもと社会人としての活躍を誓う。

(記事 初見香菜子、写真 石塚ひなの、成瀬允)