【連載】『令和元年度卒業記念特集』第5回 木下弥桜/漕艇

漕艇

この十年間は生きていく糧になる

 和歌山県のアスリート発掘プロジェクトをきっかけにボート競技を始めた木下弥桜(スポ=和歌山北)。中学時代は全国優勝を経験したものの、高校時代は納得のいく成績を残すことができず。「日本一」という称号を得るために、早大漕艇部の門を叩いた。強い決意で挑んだ早大の4年間、そして中学時代から続いた10年間を振り返る。

 木下は1年時から実力を遺憾なく発揮する。全日本大学選手権(インカレ)ではダブルスカルに出場し、優勝。さっそく、「日本一」という目標を実現させる。全日本選手権(全日本)でも4位入賞。だが、この成績に関して「1年生の自分は何もできず、先輩に連れていってもらった」と振り返る。ルーキーイヤーから抜群の成績を残した木下は、2年時から早くも主力として期待される存在となる。しかし、周囲の期待とは裏腹に、自身のパフォーマンスが全く上がらない時期が続く。同期や後輩が成長する中、ついには戦線離脱してしまう。だが、この離脱期間を「自分の内面や性格を見つめ直すことができた時間になった」と前向きに捉えた。

  3年時、女子部には達成させなければならない大きな試練があった。「インカレ女王奪還」である。前年は全種目で優勝を逃し、総合優勝は明大の手に。総合9連覇を逃す結果となってしまった。奪還を目標に掲げたこの年、「絶対に総合優勝する」という思いを全員が持ち、チームがまとまった。木下も、舵手付きフォアに出場して4位。覇権奪還を達成した。しかし、木下自身は4位という結果に納得していなかった。「(クルーが)まとまっているように見せかけて、本当はまとまっていなかった」「本当ならもっと上の順位を取らなければならなかった」と振り返る。1年生以来の日本一へ。木下の思いは強かった。

 最高学年になり、木下は米川志保女子前主将(平31スポ卒=現トヨタ自動車)の後を引き継いで主将となったが、当時は「かなりのプレッシャーがあった」と言う。圧倒的な実力を誇り、女子部をまとめていた前主将と比べ、自分はそこまでの成績を残していないから部員を引っ張っていくことは難しいと感じた木下は、コミュニケーションを取ることを重視した。自分から全員に挨拶をするということを意識し、風通しのいい雰囲気作りに努めた。

早慶レガッタで勝利する女子エイト

 そんな主将として奮闘する木下に最大の困難が訪れる。早慶レガッタである。29連覇中である女子エイトは、慶大に勝つことが至上命題。加えて、木下は女子部主将として部員をまとめ、女子エイトのクルーリーダーとしてクルーを引っ張る責任があった。怪我人の影響もあって全員で揃って練習する機会が少なく、クルーが全くまとまらない。さまざま重圧がある中、互いの思っていることを言い合い、個々の主張が強い部員たちをまとめ上げ、30連覇を達成した。「うれしい気持ちもあったが、それ以上にほっとした」と振り返る。木下にとって、最も印象に残った大会となった。

 その後のインカレではダブルスカルに出場して4位と目標である「日本一」を達成することはできなかった。しかし、「最後の大会、自分の得意な種目で勝負することができたから悔いはない」と言い切る。

 早大での4年間、ボート競技を始めてからの10年間のほとんどは辛いことだったと振り返る。「日本一」を目指すこと、「日本一」を叶えるために集まった部員たちを先頭で引っ張っていくこと。それらが簡単ではないことは想像するに難くない。しかし、木下は「10年間この競技に費やしたことで、味わえる感情がある」と言う。それは、達成感などの既存の言葉では表現できない、10年という月日があったからこそ感じることができるものなのだろう。――この10年間はこれからを生きていく糧になる。そう言った木下はどこか充実した顔をしていた。

(記事 関飛人、写真 石井尚紀氏)