『千射万箭』の心構えで
道場の使用中止、全日本学生選手権(インカレ)4位入賞、そして東京都学生リーグ2部への降格。怒濤(どとう)のシーズンを森川未和子(スポ=岐阜総合学園)は女子部主将として務め上げた。「後にも先にもこんな出来事を経験することはないだろう」、と笑いながらこの1年を回顧する。森川にとって、この1年はどんな年であったのか。冷静に己と向き合い、弓とともに歩んだ競技人生を振り返る。
高校から弓道を始めてわずか1年半でトップ選手へと成長した森川。その強さは圧倒的な練習量にある。「日本一になりたかったら、他の人と同じことをしていちゃいけない」。高校2年生の時に同期から何気なく言われた言葉を受けて、驚くべきことに朝4時半からの個人練習をスタートさせる。朝練の成果はすぐに表れ、数か月後には全国高校選抜で個人戦2位入賞、技能優秀選手にも選出された。そんな森川が早大に入学したい、という思いを抱いたのも同時期のことだ。東京都学生連盟(都学)に加盟する各大学のホームページを見ていた時、早大の「初心者から全国を目指す」という言葉が目に留まる。高的中者が集結する都学で、初心者でも迎え入れるという考え方が新鮮であった。
入部前の早大の第一印象は「怖い」だった。前年度1部リーグを制し、伊勢神宮で行われる全日本学生王座決定戦(王座)へと出場した女子部。その様子を実際に見に行った森川は、そのオーラに圧倒された。恐怖を抱きながら参加した初めての練習で、その印象は大きく覆される。森川が目にしたのは、先輩部員たちが軽々と16射皆中を決めるハイレベルな練習風景と、休憩に入った途端に笑い声が溢れる道場だった。高校では、1人淡々と練習することが当たり前だった森川にとって、和気あいあいとした雰囲気で練習する環境に驚愕(きょうがく)した。中でも一番衝撃的だったのは、後輩の選手が先輩に指導をしていたことだ。上下関係が厳しく、先輩と話をすることも許されなかった高校との違いに、始めこそ戸惑いながらも、徐々に実力を発揮。2年時には全関東学生選手権(全関)でチームを3年ぶりの優勝に導き、リーグ戦では的中率0.900で東西学生選抜対抗(東西選抜)へ出場するなど、華々しい活躍で早大をけん引した。
主将として挑んだ4年目のシーズンは苦難の連続だった。監督から突然伝えられた、女子部が本拠地として使っていた第2道場の解体。前代未聞とも言える、男子部との合同練習。男女でルールも違う弓道で、約50人の部員の練習を均等に回すのは不可能だった。批判も覚悟のうえで男女の練習時間を変えるなど、いろいろな方法を探り続けた。女子部は朝7時半から練習を設けたものの、授業がある部員も多く、従来の半分の矢数になってしまう。それでも大会を目前に控えた当時、やるしかなかった。
どんな状況でも森川は弓道を楽しみ続けた
そして迎えた最後のインカレ。団体戦予選は、練習不足を感じさせない圧巻の射で、12射10中と高的中をマークし、シード権を獲得。入賞には届かなかったが、3年ぶりにベスト8入りを果たす。最終日の個人戦では、団体で日本一になれなかった分、「優勝したい」と意気込んで森川であったが、当日練習では1中を連発する最悪なコンディションだった。個人で日本一になれる最後のチャンス、という意味でも特別なものであったこの試合。「絶対に何か残しておきたい」、そんな覚悟を持って臨んだ。本番になって無我夢中で引いた矢は、4位入賞という栄光を貫いた。
しかし、インカレの1か月後に始まったリーグ戦で、ついに歯車が狂いだす。練習していても中る気がしない感覚。どんな調子の時も常に冷静でいること、弓道を楽しむことを心掛けていた森川。かつてない不調に、初めて弓道が楽しくないと感じた。そんな時に支えてくれた人物が、武井一誠コーチ(昭49法卒)だった。主将になった時から、周りのことばかり気にしていた森川を、常にサポートしてくれていた。「あなたはできる」、その言葉をずっと森川にかけてくれた。「正直なところ、できないと思ったこともあった」というが、冷静にその言葉を受け入れたとき、それは大きな力になった。結果として1部残留には届かなかったが、入れ替え戦では20射18中とリーグ戦での最高的中を出し、最後の試合を終えることができた。「競った中で苦しんだ1試合1試合が忘れられない」。決して楽しい思い出ではないが、森川にとっては学生弓道人生の1ページとして記憶に残り続けるだろう。
イレギュラーな年だったからこそ、サポートしてくれた同期はもちろん、辞めずについてきてくれた後輩、支えてくれたOBOGのありがたさを深く実感した1年間。「歴史ある早大弓道部の主将になれたこと、トップにいられたことが誇りです」と森川はほほ笑む。弓道で培った経験を糧に新たな舞台へ、森川は邁進(まいしん)し続ける。
(記事・写真 秦絵里香)