不屈の4年間
体育各部の中で最も長い歴史を有する弓道部。倉持洵(スポ=東京・国学院久我山)は4年前、全国制覇を目指し弓道部に入部を決めた。しかし、そこには激しい競争と、時に逃げ出したくなるほどのプレッシャーのかかる日々が待っていた。選手として、主将として弓に誰よりも真っすぐに向き合った倉持の4年間とは。
ワセダに合格した4年前の春、弓道部の門を叩いた。「高校時代の忘れ物を取りに行きたい」。高校時代に達成できなかった日本一を取りに行くためだった。しかし、名門での競争は甘くはなかった。中学から弓道を始め、高校時代は全国大会を経験した倉持でも、試合では補欠にも入れない日々が続いた。悔しさの中、涙をのんで黙々と練習を続けた倉持。己の弱点に向き合い、一つ一つ課題を克服していった。そして、その努力は2年時の東京都学生リーグ戦(リーグ戦)初戦で報われる。途中出場で臨んだ最終立、他の部員たちの的中もわからないほど緊張していた倉持だったが、4射皆中を叩き出し、ワセダの勝利に大きく貢献した。培われたハングリー精神は、間違いなく倉持を選手として、そして一人の人間として大きく成長させた。
気迫のこもった表情で矢を射る倉持
部員からの推薦を得て、主将として臨んだ4年生。大黒柱として期待された彼の肩には、大きな責任がのしかかった。そのプレッシャーからスランプに陥り、全関東学生選手権(全関)や全日本選手権(インカレ)ではメンバー入りはできたものの、選手落ち。中らない主将に後輩たちはついてきてくれるのか、主将じゃなかったら、と悩むことも増えた。しかし、主将として倉持には果たさなければならない責務があった。倉持は部の勝利のために、下級生への指導方法を見直し、選手それぞれの自主性を重んじることで、下級生の突き上げを促した。当然、同期の活躍や下級生の突き上げはとても悔しかったが、彼が何よりも大事にしたのはワセダの勝利だった。部のためにすべてを捧げる倉持をみて、同期も結束した。学年の垣根なく活躍できる環境を作るために、下級生とも積極的にコミュニケーションを図ってくれた。そして、倉持を中心として一つにまとまったワセダは、リーグ戦で悲願の一部残留を決めた。
倉持の唯一の心残りは、部として「リーグ戦で力を出し切れなかったこと」。厳しい下馬評の中、一部残留できたことは誇れることであるが、部員達に最高の実力があることを分かっているからこそ、発揮しきれなかったことは歯がゆかった。だからこそ、来年の戦いには誰よりも大きな期待をかけている。
大学卒業後は仕事との両立が可能ならば、弓道を続けていきたいと話す倉持。「しばらく弓道から離れると、道場に行きたくなると思う」。実際に部を引退してからも、友達と地元の道場で弓を引いていることを笑顔で明かしてくれた。名門ワセダの主将として、誰よりも苦しみぬいた一年を越えたいま、倉持は誰よりもワセダの弓道部を愛している。春からは人生の新たなステージへと進む倉持だが、弓道への愛は決して薄れることはないだろう。
(記事 廣瀨智優、写真 秦絵里香)