仲間がいたから
女子主将として、チームを6年ぶりの全日本女子優勝大会(全日本)に導いた浅野円花(社=岐阜・中京)。後輩たちが「本当に大好きなチームだった」と振り返るほどのチームをつくりあげてきた。けがやスランプなど、さまざまな困難を乗り越えた先で浅野が手にしたものは、自分なりの『主将像』だった。
4歳で剣道を始めた浅野だが、中学のときまでは練習が大嫌いで、「常にやめたいと思っていた」という。転機となったのは中学3年時の最後の大会での敗戦だった。「今まで色々な嫌な思いをしてきたのに、最後がこの結果ということに納得できなかった」と、高校からは本格的に剣道に打ち込むようになる。その中で早大に憧れを抱いたのは高校3年生のころ。説明会での先輩の雰囲気に惹かれ、1浪して入学を果たした。
しかし、自分の実力が早大でどれほど通用するのか不安を抱いていた浅野。「現役の子に勝てないとか、限界が見えたら辞めよう」と覚悟し、剣道部への入部を決めた。そして半年後の夏合宿で行われた選考で好成績を残し、競技続行を決意した。ところが、初めての団体戦となった大会で、大将を任されるも勝ちきれず。リベンジに燃えて練習していたが、今度は2度のけがで思うように稽古に参加できない日々が続いた。さらに浅野を苦しめたのが、新型コロナウイルスの感染拡大だ。試合が次々と中止され、部員たちのモチベーションは低下。浅野自身も悔しい思いを何度も経験し、「4年間で一番辛かった」と振り返った。
相手を見据える浅野
剣道部では、1年生の夏に学年の話し合いで将来の主将、副将を決める。浅野の代では、さらに1年間じっくりと考える時間をつくり、2年夏には浅野が女子主将になることが決定していた。こうして主将に就任した浅野はチーム全体の底上げを目指し、さまざまなことに取り組んだ。たとえば、試合後のミーティング。選手全員で円になり、学年関係なく反省点や意見を言い合う場を設けた。浅野は「効率的に課題を克服できた」と効果を感じたという。後輩も「先輩も後輩も言い合える環境をつくってくださった」と話し、新たな挑戦が結果として表れていた。
その一方で浅野は、自らが思う理想の主将像と自分自身の差に苦しんでいた。浅野の思い描く主将とは、実力がチームで一番で絶対的に強い存在。それに対して自分はスランプに陥るなど、実力面で思い悩むことが多かった。それでも、いつしか「主将としてできることをやろう」と考え方を変え、一緒に自主練習をしたり、剣道を離れても相談にのるなど、「みんなと同じ目線に立つ」主将としてチームをまとめた。そして集大成となった、関東女子優勝大会での一戦。中堅の浅野に回ってきた時点では劣勢だったが、そこから浅野と副将の3年生が一本勝ちで流れを引き寄せ、全日本出場が決定。浅野が目指してきた、学年関係ないチーム力でつかんだ勝利だった。
「剣道で出会った人とのつながり」。剣道が好きなところを尋ねると、浅野はそう答えた。大学進学の際には、高校時代の友人に背中を押されて剣道を続けることを決めた。入部すると、年齢の違う自分を同期が温かく迎え入れてくれた。主将になった自分に、同級生だけではなく下級生も付いてきてくれた。そうした仲間たちとの関わりの中で、浅野は4年間走り続け、やり切った。競技としての剣道は大学で辞める。それでも変わらず、「自分にできることを考えて」、新たな舞台で挑戦を続ける。
(記事 是津直子、写真 早大剣道部提供)