「修行」を乗り越える原動力
「なんか修行みたいな感じですよね」。竹端健太郎(スポ4=京都・洛南)は自身にとっての体操をそう語る。U-21強化選手(U-21日本代表)入りを目指し、強豪の洛南高校から早大に進学。期待十分に飛び込んだ大学での体操だったが、苦しいことも多い4年間となった。卒業後は体操競技から離れる竹端。体操人生を振り返り、その原動力に迫る。
竹端は3人兄弟の末子として生まれた。2人の兄の背中を追い、小学1年生で体操競技に足を踏み入れる。中学までは地域のクラブに通い、高校は強豪校である洛南高校に進学。厳しい練習を乗り越え、全国高校総体出場を果たした。大学ではU-21日本代表を目指すため、早大を進路先に選ぶ。早大の体操部の少人数ながら一人一人目標を持って活動に取り組む姿や、練習しやすい環境にひかれたという。
大学でのデビュー戦は1年時の早慶戦。監督からの「絶対に勝たないといけない」という重圧もあったが、出場してみると部員や応援部などの支えもあり「まるでお祭りのようだった」。緊張を忘れ、楽しくできたと振り返る。また、全日本学生競技選手権(インカレ)の個人総合1部にも出場した。出来栄えに満足とまではいかなくとも、1年生ながら堂々とした演技を披露。張り詰めた空気の高校とは打って変わって、竹端の「楽しい」体操人生が幕を開けた。
跳馬の着地を成功させる竹端
大学2年の1年間は、「一番調子が良かった年」だった。だが後悔も残る。練習では調子が良くとも、大会で成績を残すことができなかった。その結果U-21日本代表の選考に外れてしまったのだ。
U-21日本代表は大学3年生以下が対象で、インカレの1部および2部個人総合上位12人が選考される。チャンスはあと2回。調子が良い今年にどうしても選ばれたい。そんな思いで練習にも精を出した。
しかし意気込んで臨んだインカレでは、1部個人総合78位。昨年度の74位を下回る結果となった。自分の力を出し切れず、「これでも駄目なら無理なのかな」と、体操を辞めたいとすら思ったという。ただ、「やるなら最後までやり切ろう」。そんな思いが竹端を突き動かした。
迎えた大学3年。男子U-21日本代表のラストチャンスの年だった。しかし2020年は日本でコロナウイルスが猛威を振るい始めたこともあり、竹端にとっては予測のできない1年となった。感染対策で満足に練習のできない状況が続き、「試合(インカレ)は無くなるだろうな」とも感じていた。そんな中、例年とは2カ月遅れの10月に開催されることが決定。インカレ史上前例のない、無観客試合での開催だった。図らずも「試合に出られるありがたみを実感した年」になった。
大学4年に上がっても、コロナウイルスの勢いはとどまることを知らなかった。不安定な情勢の中、練習ができたりできなかったりを繰り返す日々。そして3年間出場し続けたインカレでは、部内の選考会に落ち出場を逃してしまった。部員のサポートに徹しようと気持ちを新たにするも、コロナウイルスの影響で早大は無念の出場辞退に。後輩たちの演技が見られず「悔しいし寂しかった」大会となった。
コロナ禍の真っただ中を主将として必死に走り抜けた竹端。部員間の話し合いを経て主将に選ばれ、「やるしかないな」と引き受けた。目指したのは竹端が1年生の時の主将、高橋一矢(平31スポ卒=現徳洲会体操クラブ)。高橋のように練習の雰囲気を引っ張っていける主将像を、悩みながらも追い求めた。部員の意見をまとめることに苦労したが、監督や部員と話す機会も増え、主将を楽しむことができたという。
つり輪の演技に挑む竹端
竹端は自分にとっての体操を「修行」だったと振り返る。U-21日本代表に選ばれず、決して満足のいく結果は出せなかったかもしれない。それでも頑張れたのは仲間と上を目指す楽しさを知っていたから。竹端の原動力には、体操の楽しさと仲間の存在があった。「今もコロナの状況下で思うような練習ができない場面もあるけれど、その中でも楽しくやってくれれば」。4年間を乗り切れるよう、後輩たちにもエールを送った。
早大では「目標に向かい、自分で考えて進むことの大事さ」を学んだ竹端。卒業後は体操競技から離れ、「また違う世界を知っていきたい」と語る。「修行」を経た竹端は、前を向き進み続ける。
(記事 荒井結月 写真 青柳香穂氏)