【連載】『令和2年度卒業記念特集』第25回 山田元大/体操

体操

主将としての覚悟と新たな決意

 体操に対し人一倍熱い思いを抱く山田元大(スポ=千葉・市船橋)。主将として演技で部を引っ張ろうと、覚悟を持って日々の練習に向き合ってきた。そんな山田が奮闘した4年間の軌跡を追い、パリオリンピック出場という目標に向けた新たな決意に迫る。

 山田は小学4年生のとき、北京五輪の体操競技を見て興味を持ち、家から近い体操クラブに通い始めた。中学までのクラブ活動に区切りをつけ、高校では体操の名門校に進学。しかし、腰の怪我によって1年半程試合に出ることができなかった山田は、周りの選手に引け目を感じ、悔しさを覚えることに。高校3年生では少しずつ結果が出てくるようになったものの、強豪校であるからこそ団体戦のメンバーとして出場することは難しかった。そんな山田は「チームとして戦いたい」という思いから、強い同世代のいる強豪校ではなく、声がかかっていた早大に進学することを決めた。

鉄棒の演技を披露する山田

 早大に進学した山田は、闘志剥き出しで上を目指す体操部の雰囲気に惹かれ、1年生からの団体での活躍を夢見て、自らも遅れを取らないように練習に励んだ。迎えた全日本団体選手権。全員の演技に目立ったミスはなく、社会人も参加する中、見事8位の成績を収めた。山田はこの大会を最も印象に残っている大会の一つに挙げ、「きついことを乗り越えるとこんなにも楽しいんだ」と団体戦の面白さを感じたと振り返る。翌年、全日本種目別選手権で2学年先輩の高橋一矢(平30スポ卒=現徳洲会体操クラブ)がつり輪の日本チャンピオンになると、山田は「自分もやらないと」と奮い立ち、この良い流れを保ったまま2年時のインカレを迎えることに。高橋を含む団体のメンバーが出場する中、山田も結果を残し、目標の1つだったU21の日本代表入りを果たした。「初めて目標をきちんと達成できた試合だった」と当時を振り返り、同時に団体戦の楽しさを再び味わうこととなった。

 2年時までの活躍に傲慢になることなく、「ここからが勝負だ」と意気込んだ山田だったが、やる気はあるのに体がついてこない、体は動くのに気持ちがついてこないなど空回り。団体戦でのインカレ3位という目標を達成するために、日々奮闘するも達成できずに終わってしまう。我慢の続いた年となったが、そんな中、「(主将になることは)自分のためにもなる」と一念発起。切磋琢磨できるチームを目指し、演技で部を先導できるよう練習に励んだ。
 覚悟を持って迎えた4年生だったが、新型コロナウイルスの拡大に伴う緊急事態宣言の影響で活動自粛を迫られることに。加えて大会の中止や延期も余儀なくされた。それでも山田は、3年の終わりごろにしていた怪我を治すチャンスだと言い聞かせ、同期の中村唯都(スポ=愛知・名城大付)と励まし合いながら寮生活を送る。しかしこの異例の1年を振り返り、「正直不甲斐ない」と一言。3年生まで出場し続けていたインカレも4年生ではメンバー外となり、現実は甘くなかったと振り返る。体操への熱い想いとは裏腹に、厳しい1年となってしまった。

 山田は「自分の甘さや強みなど、色々な自分を知れた」と早大で過ごした日々を振り返る。4年間ともに過ごした「戦友」、とりわけ同期には、山田が体操に集中しすぎる余り周りが見えなくなったときに、アドバイスや肩の力を抜く一言をかけてもらったと語り、感謝の言葉を添えた。そして、無限の可能性を秘める後輩に、「一人一人が今何をすべきなのかをきちんと考え、まず行動すること」「体操をできる時間は限られているから、後悔しないように一日一日を過ごしてほしい」と力強いメッセージ。山田は、このことを自分にも言い聞かせ今後に生かすという。
山田はこの先も体操と向き合い続ける。「4年間で成績を残せなかった選手がこの先成績を残そうと思ったら、これまでの努力では絶対に戦えない」と自分を律し、「この未熟な自分をどう成長させていくことかというのはこれからの楽しみ」と期待した。そして、パリ五輪出場、金メダル獲得を目標に掲げ、「3年間覚悟を持ってやりたい」と力強い一言。さまざまな自分を知り覚悟を決めた山田は、世界の頂を目指して早大から羽ばたいていく。

(記事、写真 足立涼子)