【連載】『令和4年度卒業記念特集』第35回 森多諒/フェンシング

フェンシング

圧倒的人望を集めた主将の足跡

 「すごい」。フェンシング部の主将・森多諒(社4=山口・柳井学園)の生い立ちを聞けば、誰もが率直にそう漏らすだろう。森多は小学5年生の頃からフェンシングを始め、中学2年生で東京五輪に向けたオリンピック強化指定選手に選抜される。その少し前までは空手にも取り組んでおり、極真空手の世界大会で3位になった経験もあるという。高校生になってからは世界選手権に出場し、インターハイでは常に上位入賞。さらに「上の世界を見てほしいから、早慶以外は学費を出さない」という親の方針のもと勉学にも励み、晴れて早大に合格した。大学でも競技で成績を残しながら、部内外問わず様々なことに挑戦し、最終的には難関の大手企業から数多く内定を勝ち取った森多。いわゆる“人生勝ち組”という言葉がぴったりかもしれない。しかし森多は言う。「俺が踏んできた足跡を見てから、今の自分を見てほしい。自分の中では苦労していたし、今ここにいるのも色んな歴史があるから」と。その足跡を、ほんの一部分ではあるがここで伝えられたらと思う。

森多のベストショット。最後の早慶戦、勝利の瞬間

 小学5年生の頃、フェンシングのコーチをしていた両親の会社の顧客に勧められ競技を始めた森多。平行して取り組んでいた空手は「つまらなくなった」と中学1年生で引退し、そこから本格的にフェンシング一筋の人生が始まった。すると次の年にはオリンピックの強化指定選手に選ばれ、毎週のように山口から東京へ出向いては練習し、海外遠征にも度々出かけるように。最初に訪れたのはフェンシングの聖地であるフランスで、「もっとグローバルになりたい」と、食、言語、雰囲気など日本とは全く異なる異国の地に刺激を受けたという。その一方で勉学もおろそかにすることはなく、森多は「テストで平均点以下を取ったら携帯没収とか、本当に親がスパルタだった」と文武両道を体現していた。

 さらに森多は、強化選手に選ばれた年のJOCジュニアオリンピックカップで兄とともにワンツーフィニッシュを果たし、その勢いのままW杯に出場するなど右肩上がりで成長し続けていた。しかし「世界選手権に行くことがすごい夢で、ナショナルソックス(日本代表のみが着用できる競技用のソックス)が本当に欲しかった」という森多は、その夢がかなった高校1年生のときにスランプに陥る。「(世界選手権は)中途半端な成績で終わって、燃え尽き症候群みたいになってしまった」と、大きな目標を達成したがゆえに次の目的地を見つけられず、伸び悩んだのだ。インターハイなど高体連が主催する大会では成績を残せるものの、フェンシング界の本格的な大会では力を発揮できず、「違う道でやってみたらいいんじゃないか」と思い始める。そこで、「どうしても1位になれない人間だった」森多は、いつも2位に終わっていたインターハイで優勝すること、そして早大に入学することを目標に定めエンジンをかけ直した。結局最後のインターハイも2位に終わったが、晴れて早大に合格。新たな道を歩み始めた。

森多は世界でも活躍していた

 大学に入学した森多は1年生でレギュラーをつかみ取ると、同年の全日本学生選手権の団体戦で早大フェンシング部史上初の準優勝を果たす。「目立ちたがり屋だから、団体戦になるとテンションが上がるんだよね」。そう笑顔を見せる森多は、誰よりも早大への愛が強い。中高時代までは個人戦を重視してきたが、大学生となってからは団体で勝つこと、チーム早稲田が勝つことに重きを置いてきた。だからこそ、1年生のうちから先輩に対して「こういう練習しませんか」と働きかけることも多々あったという。その1つの例として森多が3年生の時、選手が競技に専念できるようマネジャー制度を導入。それも一筋縄ではいかず、何度か衝突を繰り返した末に達成できたことである。さらに留学生が多いフェンシング部で、彼らが孤立しないよう積極的にまわりに働きかけたのも森多だった。文化の違いをお互いに理解するよう呼びかけたり、英語を話せない選手と留学生との会話の場を設けたりするなど、出身国の違いによる壁を次々と取り除いてきた。そのためか、森多の引退試合のあと真っ先に涙を流して森多に駆け寄ったのは、他でもない留学生の黄尚飛(国教4=シンガポール・メリディアン・ジュニア・カレッジ)だったという。

誰よりも早稲田を愛した森多

 これまで書いてきたように、入学した頃からチームのことを第一に考えてきたからこそ「めちゃくちゃ主将になりたかった」森多。しかし最上級生となって主将に選ばれたのは、男子フルーレのエース・川村京太(スポ4=東京・東亜学園)だった。ただ諸事情により5月から森多が新しく就任。念願の主将の座を手に入れると、そこからメンター制度を導入し、先輩後輩関係なく意見を出し合い部の運営に活かすしくみをつくっていった。「全部を自分事として考えられるようにしてほしい」。これは、森多が主将となったときに掲げた理想のチームのかたちだ。前述したマネジャー制度導入や留学生との交流にも共通していることだが、誰かが問題を抱えたときに、自分自身も1人の当事者として歩み寄る、そんな「人間性もトップアスリート」の選手が揃うチームにしたい。その一心で過ごしてきたという。そして主将としての働きかけは部内に留まらなかった。「後悔しないように、いろんな人に話しかけるようにしていた」という森多は体育会の集会で、当時野球部の主将を務めていた中川卓也(スポ4=大阪桐蔭)に声をかけ、そこから主将数人とご飯に行くなど交流を深めた。「主将って孤独で嫌われ役。それを分かり合えて、もっと早くに出会いたかったと思った。腐れ縁の友達ができました」。森多は競技そのもの以上に、部として、早大体育会としての成長、そして人との関わりを誰よりも大切にし、多方面に良い影響を与えてきた。

最後の早慶戦には多くの友人が会場へ詰めかけた

 そんな森多にとって「思い出すだけで感情が高ぶる」思い出の1試合は、競技人生最後の早慶戦だという。最後回りを務め、44-26とあと1本で勝利が決まるというところで、2本連続で相手にポイントを取られた森多。そこに聞こえてきた「諒先輩、最後ですよ!」という同じサーブル陣の田中智也(商2=千葉・東葛飾)の声で森多の涙腺は崩壊した。「智也とバチバチしたこともあったけど、そんな智也と(チームを)組むのも最後かと思って」。その日の取材でも「(最後は)今まで一緒にやってきたいろんな人の顔が思い浮かんだ」と話しており、森多は約12年間の競技人生の中で関わってきた仲間たちを思い返しながら、涙を流して最後の1本を取り切った。勝利が決まると、チームメイトはもちろん、会場に詰め掛けていた大勢の友人たちが次々と森多に駆け寄っては抱擁を交わしており、その光景はまさに森多の人望を物語っていた。「世界選手権よりも誇らしい体験だったかもしれない」と振り返るラストゲームは、記者の目にもまだ焼き付いている。

 競技性以上に人間性を求めた森多。そしてそんな森多には多くの人が心を寄せている。「勝つためには人間関係だったり、自分の考え方を他の方向から刺激を受けたりしないといけない。強い人って、勝ったときに『みんなのおかげです』って言うけど、それはお世辞を言っているわけではなくて、本当に思っているんだよね。中途半端な成績の奴ってだいたい『俺が頑張ったから』っていうマインドでやっているから…いろんな人と関わってみるということを怖がらずにやってほしいかな」。後輩たちにはそうエールを残した。新しい人間関係を築くことを恐れないこと。出会った1人1人と対話し、大切にすること。感謝すること。それが競技者としての強さにもつながると森多は話す。そんな森多はきっとこれからもまわりを巻き込み、彼らの追い風となりながら新たな足跡を刻んでいくことだろう。(記事・写真 槌田花)