【連載】『令和3年度卒業記念特集』第36回 高原真央/フェンシング

フェンシング

成長と教育

 

 「宝物です―」高原真央主将(人4=福井・武生)は早大フェンシング部での4年間をこう振り返った。「すごく貴重というか、早稲田じゃなければこんな経験はできなかった、という経験をたくさんさせてもらったので」スポーツ推薦を受けられるほどの成績を持たず、指定校推薦が残っている学校の中で、自分を強くするための場所として選んだ早大。それは高原にとって大正解の選択だった。

 高原はフルーレを専門とする選手。「 いちばん身体的なハンデが少なくて、身長が高いほど有利という種目でもなくて。 私自身、特に特徴がある訳でもないしスピードが速いわけでもないのですが、それでも勝てるというのがすごく面白い」と3種目ある中からフルーレを選んだ。小学2年生時からこの競技人生を歩み始めた高原の強みは、我慢強さとフットワーク。「ディフェンスを中心に相手がイラつくまで我慢することをメインでやっています」と笑顔を浮かべる。オリンピアンである松山恭助(令2スポ卒=現JTB)も、卒業後練習に訪れた際に「お前の強いところは足があるところと、我慢強いところだ」と高原に太鼓判を押した。

 

 高原の持ち味は我慢強さとフットワーク

 入学当初の目標として、団体メンバーに入ること、そして個人では大会で優勝することを掲げていた1年生の高原。しかしその強い想いとは裏腹に、全日本学生選手権大会(インカレ)では個人戦で2回戦敗退、しかも部内の先輩に負けるというこの上ない悔しさを味わった。「そこで大号泣しました」とこの敗戦を機に意識が変わり、先輩とともに自主練を多くこなすなどして大幅に練習量を増やしたという。そして2年生になり、ついに関東学生リーグ戦(リーグ戦)で女子フルーレ団体戦の出場がかなう。2試合のみではあったが、先輩たちとともに戦い抜きリーグ戦制覇に貢献した。高原は当時を「メンバーに入れたことがとりあえずうれしくて。さらに優勝できるという雰囲気がチーム内にあって、それでちゃんと優勝できたこともとてもうれしかったです」と振り返る。関東学生選手権大会(関カレ)、インカレでは団体メンバーに入ることはできなかったものの、高原は「毎日強い先輩と一緒に練習できていることがとてもうれしいことだった」と2年生時の満足度の高さを口にした。

 

 2年生になり、リーグ戦で団体メンバーに選ばれた高原

 しかし3年生となった2020年、新型コロナウイルスにより予定されていた試合は次々と中止に。最初の数カ月は練習場すら使えず、オンラインでトレーニングをする日々が続いた。対外試合は12月の早慶戦のみ。そこで高原が剣を握ったのは専門のフルーレではなくサーブルの団体戦だった。初めてのサーブルの出場で「みんなは絶対に勝てると思って安心していたと思うのですが、私はすごく緊張していました」と言いながらも、45-17で圧勝。フェンシング部全体としても5勝1敗と、この年の唯一の試合をいい形で締めくくった。

そして4年生となり、同期内の話し合いで主将に就任した高原。「人数が足りていない状態で、とにかく1人1人が強くならないといけない、半年オフはだめだろうと思って。ちょっと…ちょっとって言うと部員に怒られそうですけど(笑)練習量を増やしました」とまずは部員全体の底上げを図った。ただこの1年間はなかなか波乱万丈だった。まずは、主将として今まで以上のモチベーションを持ち、チームの士気自体も上がっていた中で知らされたリーグ戦の中止。強いメンバーがそろい、勝てると思っていたがゆえに「本当にショックだった」と高原は話す。さらにそこへ重なったエース狩野央梨沙(スポ3=宮城・常盤木学園)のけが。サーブル専門の村上万里亜(スポ4=愛媛・三島)を借り、高原と森多舞(スポ1=山口・岩国工)でインカレ、関カレに挑んだ。「(インカレは)3位で、頑張ったなと言いたいところなんですよね(笑)。関カレは4位だったのですが、本当に3位とかになれると思っていなくて。3人とも全力を出して頑張った結果が3位なのかなと思って、それは良かったなって」と、フルメンバーではない出場の健闘を喜んだ。しかし12月には早慶戦で27年ぶりの敗北を喫する。専門ではない種目に出る選手も多く、準備不足が目立ったと話す高原。「慶応も強くなっていますし、早稲田もいよいよやばいのかなと言う感覚です」と不安も口にした。続く全日本選手権の女子フルーレ団体にはインカレと同じ3人で臨み「インカレ、関カレの調子でいけば勝てるなと思っていた」もののベスト8止まり。しかし翌日の女子サーブル団体では3位という好成績を残す。こうした浮き沈みの激しいシーズンを過ごし、高原の主将としての1年間が終わった。

 

 高原(左端)とともに4年間を過ごした同期3人

 この4年間で最も成長したところは、「人を頼る力」。「(今までは)人を頼ることは逃げというような感覚がありました。それでもいつでも周りに人がいてくれて、4年になっても先輩やコーチなどいろんな人にいろんなことを教えてもらって、今があるなと思っています」と話した。卒業後、競技は続けず地元の福井県で教員になるという。「教える側としてフェンシングには関わっていきたいと思っています。自分なりにまた人を頼りながら頑張って強い選手を育てて、早稲田を勧められるようになりたいです」と、早大での経験を今度はまだ見ぬ教え子へつなぐことを誓った。

 後輩たちに対しては「来年も試合がどうなるかわからないし、負けたりしていろんな人からいろんなことを言われるかもしれないけど、どれだけ負けても辛い思いをしてもいいからちゃんと笑って立ち直って来い」と笑顔でエールを送った高原。教鞭(きょうべん)と剣を執る彼女のこれからの活躍を願ってやまない。

                             (記事 槌田花)