【連載】『令和4年度卒業記念特集』第15回 髙田雅/馬術

馬術

馬と、チームと本気で向き合って

 「馬たちが本当に大好きだし、一生忘れない」。引退試合の全早稲田対全慶應義塾定期戦(早慶戦)を終えた直後に髙田雅(人=大阪女学院)はこう語った。主将として過ごしたラストイヤーは東京六大学競技大会(六大学)の総合優勝、全日本学生大会(全日本学生)の準優勝など偉業の連続。しかしその裏には、一選手として馬や馬術競技に、主将としてチームに本気で向き合ってきた髙田の姿があった。

早慶戦の最終競技・中障害飛越競技の終了後、相棒・プリンチペスコを労う髙田

 小学生の時に馬に出会った髙田。きっかけは父親に連れられて行った地元の乗馬クラブだった。そこで乗馬の楽しさを覚えると、乗馬クラブに入会。中学生時には馬術競技に出場可能な乗馬クラブに移り、競技にも出場するようになったという。高校時代も競技を続けた髙田は「馬術を続けたい」と思うようになる。進学先を考える段階で馬術部のある早大を視野に入れ、入学、入部を果たした。最初は「楽しみながら馬に乗る」ことを目標にしていたが、次第にその気持ちは変化していく。2年生に入ると髙田は、頻繫に競技に出場する上級生や同期の吉田光佑(スポ=東福岡)のサポート役として、間近で人馬の姿を見届けた。しかし、主力の4年生が引退を迎える時期になり、「元々経験者であった自分が競技に出るべきである」という自覚が生まれていったという。その自覚の通り、髙田は3年生になると積極的に試合に出場し、自身で練習を考案するようになる。「馬術とは」。真剣にこのテーマに向き合い、競技に励み続けた。

 髙田はこの頃から部活動としてのあるべき姿にも向き合うようになる。入部した経緯や部活動での目標が部員ごとに異なっていたこともあり、それまでの馬術部はチームスポーツとしての統一感が高まっていなかったという。3年生の後半になり副将に就任すると、部活動の理想を同期や下級生と語るようになった。その理想は「部全体で戦うこと」。部として、チームとして大会に勝つことを目標に掲げていた髙田は主将を務める運びとなった。理想を掲げ主将に就任した髙田だったが、目の前には部員ごとに大会への認識が異なる光景が広がり、課題が山積。初陣となる六大学も刻一刻と迫ってきていた。そこで、同期やコーチと相談を交え、練習で競技歴の長い選手に指導役を頼むことを決意。自身は橋渡し役に徹した。さらに大会前には、全員参加必須の決起集会を開催。部員間での競技への温度差を解消すべく、大会について丁寧に説明し、出場の有無にかかわらず全員で士気を高めていったという。そして、その試みは着実に実を結ぶ。4月の六大学では全大学参加の下で44年ぶりの総合優勝、6月の関東学生競技大会(関東学生)で全日本学生団体出場を決めると、全日本学生では史上初の総合馬術競技(総合馬術)2位入賞、3種目総合準優勝を成し遂げた。そして髙田自身も、関東学生では全日本学生進出に大きく貢献。他の主要試合にも積極的に出場し、一選手としての存在感も発揮し続けた。

2022年の関東学生の総合馬術・クロスカントリーで健闘する髙田とデクスター

 主将としての出来について、髙田は「結果が残って、みんなとも仲良くできた」と語り100点中80点の高得点をつけた。しかし、引退して最初に思い浮かんだのは、馬という「動物を育てることの責任感」。大会前に練習をし過ぎたあまり馬がケガや体調不良に陥り、馬との向き合い方を反省した日もあったが、馬の体調面を考慮した練習を組むようにチーム内で呼びかけ、その反省を生かしていったそうだ。

 最初は楽しむことを目的に乗馬、馬術を始めた髙田。しかし、馬術部での下級生時代の経験が、競技者として、チームリーダーとしての自覚を生み出していった。馬術に本気で向き合った馬術部での日々。「一生こういうすることもないかと思うと寂しい」と髙田は語る。しかし、引退を迎えた今、中学時代から早大時代まで連れ添ってきた相棒・プリンチペスコとともに地元・関西に帰ってきた。「プリンチペスコと一緒に試合に出る」。髙田の馬術人生はまだ終わらない。試合出場に向け、馬と向き合う日々が再び始まった。

(記事、写真 横山勝興)