【連載】『令和2年度卒業記念特集』第3回 柴田迅/野球

野球

150キロ右腕の決断

 わずか1点で大きく流れが変わる試合終盤。8、9回を抑える役割は現代野球において特に重要視され、競った試合であれば無失点で抑えることが絶対条件として命じられる。柴田迅(社=東京・早大学院)はこうした重圧のかかる場面の中、常に攻め切る気持ちを持ってマウンドに立ち続けた。東京六大学リーグ戦(リーグ戦)では32試合全てで中継ぎとして登板。挫折を味わいながらも六大学屈指のリリーバーへと成長を遂げた柴田の4年間、そして競技の第一線から退く決断に迫った。

 柴田の早稲田との出会いは中学時代にさかのぼる。偶然、家族で早慶レガッタを観戦した柴田は、そこで早稲田のエンジや早慶戦の特別な雰囲気に触れ、憧れを抱いていった。その後、千葉県内の高校から誘いもあったが、早大学院高への進学を決意し見事合格。高校での3年間は投手コーチがいない環境の中、独学で試行錯誤を重ね3年夏にはチームを西東京8強に導いた。それでも高校卒業後は野球を継続するか悩んだという。だが、周囲からの後押しもあり早大野球部への入部を決めた。

中継ぎとして、幾度となくチームの危機を救ってきた柴田

 入学当初は周囲のレベルの高さに圧倒された。しかし、「真っすぐの伸びや質では勝負ができる」――。そう感じた柴田はキャッチボールから意識を高め、自身の持ち味である直球を磨くことに重点を置いた。すると、フレッシュリーグやオープン戦といった実戦での登板機会が増え、2年の春にはリーグ戦で初登板。「まさか2年の春から投げられるとは思わなかった」。どこかフワフワした感覚を持ちながらも、初めての登板を1回無失点で封じた。さらに、その冬には新たに就任した小宮山悟監督(平2教卒=千葉・芝浦工大柏)の指導の下、インステップだった投球フォームの修正に着手。この改造が功を奏し、以前より球の伸びが増した。一足先に早川隆久(スポ=千葉・木更津総合)や今西拓弥(スポ=広島・広陵)が結果を残し悔しさを感じる中、柴田自身も順調に開花の時を迎えようとしていた。

 上級生となり、迎えた3年の春。柴田はオープン戦で結果を残し、セットアッパーに任命される。だが、そこで試練が襲った。先勝を許して迎えた明大2回戦。柴田は1点リードの8回にマウンドに上がり、あとアウト1つでチェンジという場面で自らに飛んだゴロを後逸。その直後に逆転3ラン本塁打を浴び、チームは勝ち点を落とした。試合後、柴田は「自分が試合を壊した」と己を強く責めた。今後も多くのリーグ戦が控えている。頭ではそう思いつつも、なかなか気持ちを切り替えることができない。そんな時、小宮山監督から声をかけられた。「次の試合も8回、9回頼むぞ」。この言葉が柴田を失意のどん底から救い出す光になった。そこからはこのシーズン全ての登板試合を無失点で乗り切るなど抜群の安定感を見せ、一気に救援陣の柱に成長。挫折を味わった一方で、柴田の野球人生を大きく変える飛躍の年ともなった。

 最終学年となった4年時には、早大における伝統のエース番号『11』を背負い、3年秋から務めるクローザーとしての責務を担った。一段と責任が増す中でも、柴田はこれまでのように安定した投球を披露。その役目を全うした。そして迎えた早慶2回戦。天王山となった一戦で柴田は5番手として8回に登板。結果は2死を奪いながらも、不運な当たりが続き一、三塁に走者を残しての降板となった。だが、後悔はない。「4年間の集大成として全てを出し切った結果であり、(捕手の)岩本(久重、スポ3=大阪桐蔭)も自分の気持ちをくみ取ったリードをしてくれた」――。その後、チームは劇的な逆転劇で10季ぶりの優勝を飾ることとなる。「優勝以外は満足できる結果ではない」。以前、こう語った柴田の表情からは、涙と笑顔の両方が見えた。

優勝がかかった今秋の早慶戦で渾身(こんしん)の投球を見せた柴田

 柴田にとって早大の4年間は「入部前に思い描いていたよりも何倍、何十倍も充実した時間」だったという。時には苦しい時期も経験し、歩んできた道は決して平たんではなかった。それでも、仲間とつかんだ栄冠は柴田にとってかけがえのないものであろう。今後は社会人で野球を続けるという選択肢もあったが、柴田は「もっと広い社会を見てみたい」と野球からは離れる決断を下した。神宮のマウンドから、広い社会へ。野球の舞台からは離れるが、目標に向かって進む熱意、そして4年間で得た財産はこれからの人生でも強みとなるに違いない。

(記事 足立優大、写真 池田有輝)