エース安藤が復活の快投 塾に先勝し伝説の幕開け/早慶6連戦 1回戦

野球
TEAM
早 大
慶 大
(早)○安藤―野村
◇(二塁打)末次

 1960年、日本は大きな社会変動の渦中にあった。当時の岸信介内閣が調印した新日米安全保障条約をめぐる反対運動、いわゆる安保闘争が展開。政治家や運動家だけでなく、労働者や学生といった市民も参加する非常に大規模なものだった。そんな激動の年に、神宮の杜で日本野球史に伝説として刻まれる激戦が行われた。東京六大学秋季リーグ戦(秋季リーグ戦)において早大と慶大が優勝を懸けて繰り広げた、『早慶6連戦』だ。

 早慶戦に至るまでの両校の成績は、早大が7勝3敗の勝ち点3、慶大が8勝2敗の勝ち点4。ここまで全カードで勝ち点を奪っていた慶大が首位を走り、前のカードで明大に4回戦の末負け越した早大は2位につけていた。3位の法大以下4校は全試合を終えて勝ち点3以下だったため、優勝の可能性があるのはこの2校のみ。慶大は勝ち点を奪えば優勝、早大は2勝0敗で優勝、2勝1敗なら勝ち点・勝率で並び優勝決定戦にもつれ込むという状況だった。

 6万5千人のファンが見守る中始まった1回戦。下馬評では清澤忠彦、角谷隆、三浦清、丹羽弘の投手4枚看板に強力打線を兼ね備えた慶大が有利とされていた。しかし、先制したのは早大だった。5回、慶大先発の清澤に対し、先頭の村上唯三郎(1=愛媛・西条)がストレートの四球で出塁。後続が連続で犠打を失敗して2死となるが、1番・伊田保生(政経3=大阪・明星)のところで清澤がまたも制球を乱し、カウントは3-0となる。ここで慶大ベンチが動き、清澤に代えて角谷をマウンドへ。しかし角谷は結局伊田を歩かせる。一、二塁の好機となり、打席に入ったのは末次義久(商2=熊本・済々黌)。高めの球を振り抜くと打球は三塁線を破り、これが先制の適時二塁打となった。さらに7回には2死から伊田、末次が連打を放ち、一、三塁の好機をつくる。続く村瀬英治(4=県岐阜商)の打球は中前への適時打となり、2-0とリードを広げた。

 早大の先発はエース安藤元博(教3=香川・坂出商)。下手投げから繰り出される浮き上がる速球に、シンカーやシュートといった変化球を組み合わせて相手を翻弄(ほんろう)する変則右腕だ。このシーズンは不調が続いていたものの、早慶戦前に学生野球の父として知られる飛田穂洲氏(大正2法卒)の助言による、当時としては異例のノースロー調整を敢行。これが奏功し、早慶戦では本来の姿を取り戻した。3年春までに5勝を挙げるなど得意としていた慶大に対し、4回まで走者を許さない。5回には2死二塁から中前打を浴びたが、本塁を狙った二塁走者を中堅手・石黒行彦(3=宮城・仙台一)が捕殺。好投をバックも盛り立てた。

 安藤はその後もスコアボードに0を並べ、2点リードのまま9回へ。しかしすんなり勝利とはいかず、慶大打線の反撃を受ける。2本の安打で1死一、三塁とされると、4番・大橋勲に中前適時打を許して1点差に詰め寄られた。続く打者・小島郁夫も安藤の球を捉え、鋭い打球はライナーでセンター右へ。しかしこれを石黒が捕球すると、タッチアップを狙った二塁走者を素早い中継プレーで捕殺し併殺が完成。2-1でゲームセットとなり、辛くも勝利を手にした早大が優勝に王手をかけた。

2回戦の記事に続く(4/19更新)

(記事 池田有輝)

※学部は判明者のみ記載、名前と学年は当時