【特集】早慶野球(秋)号特集『佐竹功年選手独占インタビュー』

野球

 10月に開催されたアジア競技大会(アジア大会)。社会人野球でプレーする選手で構成された野球日本代表は3位に輝きました。そこで最年長メンバーとして活躍を見せたのが佐竹功年選手(平18人卒=トヨタ自動車)です。社会人野球の最高峰、都市対抗で、所属するトヨタ自動車で2度、補強選手として加わった西濃運輸で1度の計3度頂点に立ち、個人としても2016年に橋戸賞、2019年に久慈賞を受賞するなど、抜群の実績を誇る佐竹選手。今回発行される早慶野球(秋)号では40歳となった今も第一線で腕を振り続ける佐竹選手の特集企画を掲載しています。それに際して行われたインタビューの全文をこちらでは公開します。佐竹選手が野球を始めたきっかけや引退後の将来像まで、紙面に収まりきらなかったエピソードをご覧ください!

※この取材は9月15日に行われたものです。

「僕の野球の原点は早稲田で培ったもの」

笑顔で質問に答える佐竹

――佐竹選手が野球を始めたきっかけを教えてください

 9歳で小学校に所属してる野球部に入ったのですが、きっかけとしては野球する環境しか周りになくて(笑)。他のスポーツ選ぶことができない時代だったので、兄もやっていましたし、自然と野球を始めたという感じです。

――ポジションはどこだったのでしょうか

 4年生は内野手、5年生がキャッチャー、6年生がピッチャーです。 そこから中学校の部活の軟式野球でキャッチャーをやって、高校から硬式でピッチャーです。

――高校で投手に転身した理由を教えてください

 チーム事情ですね。肩が強かったので。僕らは田舎だったので、中学校のメンバーがそのままに高校行って、野球するみたいな感じでした。だから高校の監督も中学校時代から僕らの野球見てるので、 入る時には「こいつはこのポジションだな」みたいな感じで(ポジションが決められていて)、僕は入った時から自然にピッチャーでした。

――高校時代を振り返って、ご自身ではどのような投手だったと思いますか

 球は速かったですが、そんなに細かいコントロールはなくて、ストライクが入れば抑えられるかなというピッチャーでした。

――高校卒業後、早大への進学を決めた理由を教えてください

 小学校の時に箱根駅伝を見て、少し前まで(早大の)監督されていた渡辺康幸さん(平8人卒=現住友電工監督)が現役で走られている時の箱根駅伝を見て、早稲田に行きたいなという風に思っていました。小学校の時から野球をやる、やらないは別にして、 早稲田に行きたいと思っていました。

――高校卒業時の進路としてプロは考えなかったのでしょうか

 プロは全く考えてなかったです。

――進路は早大一本ということでしょうか

 そうですね。いろんな大学さんから声かけていただきましたが、早稲田に行きたいということで断らせていただきました。

――入学後、同期の越智大祐氏(平18人卒)が1年の春から第二先発として登板していましたが、どのように見ていましたか

 入学して和田さん(和田毅、平15人卒=現ソフトバンク)という、スーパーエースがいて、3年生、2年生に、ピッチャーが少なくて、僕と越智が高校3年の2月ぐらいから練習参加したのですが、 そこで結構、いいじゃないかみたいな感じで認められて、そこからオープン戦とかで投げさせてもらって、最終的には越智が(第二先発の座を)つかみ取って、 1年の春からリーグ戦に投げることになったので、僕的にはいいライバルじゃないですけど、お互い高め合っていけたらいいなという風に思っていました。

――早大時代の背番号は何番だったのでしょうか

 4年間14番です。

――なぜ14番だったのでしょうか

 1番最初にベンチに入るという時に背番号を希望できるんです。 当時4年生の和田さんに「佐竹、何番がいいの?」と聞かれたので、「できれば14がいいです」と答えたら。それがそのまま通ったって感じです。思い入れとしては誕生日が14日というのはあるかもしれないですが、あんまりないですかね(笑)。11番と18番は特別なので、僕らみたいな1年にはつけられなかったのですが、それ以外の背番号で空いてる番号だったら14がいいかなと思って14にしました。

――早大の4年間での1番の思い出を教えてください

 うーん、難しいな。でも4年生の春、勝ち点4同士で早慶戦になって、27年ぶりだったかな、1勝1敗で最後月曜日までもつれたのですが、その試合で最後途中から投げて、胴上げ投手になったのが嬉しいですね。試合での思い出ではそれが1番大きいです。

――早大時代の佐竹選手はご自身ではどのような投手だったと思いますか

 高校の時よりさらにコントロールが悪くなりましたね。バッターのレベルが上がるので、相手がボール球を振ってくれなくなって、 球は速いけどストライクが入らないというピッチャーで、押し出しも何回もしましたし、投げてみないとわからないというピッチャーだったと自分でも自覚しています。

――早大時代の4年間で成長したと思う部分はありますか

 僕の野球の原点は早稲田で培ったものだと思っています。準備の大切さだとか、1球目の大切さというのも学ばせてもらいましたし、 技術的なことというか、ピッチングフォームのメカニックなところも、当時学生トレーナーだった土橋さん(土橋恵秀トレーナー、平15人卒=滋賀・比叡山)に教えていただきました。あとは早稲田大学は大学野球の中では本当に伝統ある特殊なチームだと思います。高校時代は本当に無名というか、 どちらかというと伝統校や名門高校に向かっていくようなチームで野球をやっていたのですが、早稲田は逆に伝統校なので、どちらかというと周りが「早稲田に負けるか」というように立ち向かってきます。それを跳ね返すというようなチームでやれたので、あまり強くないチームが強いチームに勝つためにどうやってやるんだという高校時代を過ごせて、逆に大学では名門が名門である理由を学べたかなと思っています。高校、大学で両極端のところでやれたのは本当に良かったかなと思っています。

――当時の監督は野村徹氏(昭36政経卒)と應武篤良氏(昭56教卒)の捕手出身のお二人ですが、お二人からどのようなことを学ばれましたか

 野村さんはコントロールがピッチャーは1番大事という話をこんこんとされました。困ったらアウトコースに投げられるかどうかがピッチャーは1番大事だと言われていました。僕は本当にコントロールが悪かったので、4年間コントロールをよくするために苦労したという記憶しかないですが、今40歳になってこうやって野球をやれているのも、野村さんのおかげでコントロールの大切さというのを学ばせていただいたからで。それは本当に大事だったんだなというのは思います。あとさっきも話したのですが、準備とか1球目の大切さというのは野村さんから教えていただきました。今になっても、生きているなという風に思っています。應武さんは(監督として指導を受けたのは)1年間で、教えてもらったこともいろいろあるのですが、どちらかというと僕を信頼して、試合で使ってくれたというところが、本当にありがたかったです。やっぱり試合でしか学べないこともたくさんあったので。コントロールが悪いであろう僕を我慢強く使ってくれたのが、今の自分につながってるかなと思っているので、本当に感謝しています。また、2年生の時に今の監督の小宮山さん(小宮山悟監督、平2教卒=千葉・芝浦工大柏)がメジャーから帰ってきて、1年間野球浪人していて、その間早稲田の方に来ていただいていて、「お前はボールはいいんだ」とずっと言ってくださったのは、本当に励みになったと思っています 。

――大学時代はプロは意識されていましたか

 そうですね。もちろん入学する時はプロなんて行けるとはこれっぽっちも思ってなかったのですが、 僕が入学した時は4年生で和田さんという、もう、ドラフトの超目玉がいて、3年生に鳥谷さん(鳥谷敬氏、平16人卒)というまたこれもドラフトの超目玉がいたので、本当に毎日球場にスカウトの方が来られていたので、意識してしまうところはありました。さっきも言ったのですが、1年生から投げるチャンスをもらっていたので、順調に成長すれば、(プロが)届かないところでもないのかなと思いましたし、スカウトの方からも「頑張れば行ける」という声をかけていただいたので、その辺から「もしかしたら行けるかも」という感じで練習はしていました。

――4年時のドラフトはどのような気持ちで見ていましたか

 僕らの時はまだプロ志望届がなくて、調査書みたいなのは書くのですが、誰がかかるかというのは全くわからない状態でした。ドラフトの日は同期でプロに行った武内(晋一氏、平18人卒)と2人で一応本キャン(早稲田キャンパス)にはいましたが、掛からないんじゃないかなと思って見ていました。

――卒業後はトヨタ自動車に入社されたと思うのですが、トヨタ自動車に決められた理由を教えてください

 ありがたいことにたくさんの企業の方から「うちで野球をやらないか」と声かけていただいたのですが、その中で自分なりに数社に絞らせてもらって、練習見に行ったりだとか、 会社や寮も見させてもらったりして、最後、トヨタともう1社と迷ったのですが、トヨタ自動車は早稲田の先輩がいませんでした。他の企業は1人、2人と早稲田の先輩がいました。先輩がいることが嫌なのではなく、僕がトヨタに行くことで、早稲田からトヨタっていう新しいルートができるので、それで後輩にも選択肢の幅が広がるかなと思いました。あとはトヨタは今でこそ優勝させてもらっていますが、全国で優勝したことがなくて、これからというチームだったので、そこにも魅力を感じて、強くなっていく過程を楽しみたいのもあって、トヨタ自動車に決めました。

――佐竹選手の入社後、河原右京選手(平28スポ卒)、八木健太郎選手(平30スポ卒)、今井脩斗選手(令4スポ卒)といった早大の後輩が入社されていますが、どのように感じていますか

 もちろん嬉しいですが、早稲田から来ている以上、トヨタでもしっかりしなきゃいけないなと思っていますし「やっぱり早稲田は違うな」と思わせないといけないなというのは常々思ってるので、そういうところは後輩が入ってきてもちゃんと見とかないといけないなとは思っています。

――佐竹選手のフォームですが、大学時代はオーソドックスなフォームだったと思うのですが、現在のテイクバックがコンパクトなフォームに変えられたきっかけを教えてください

 僕自身は投げ方を変えてるつもりはないです。まあ見た目があんなに変わってるので「嘘つけ」と思われるかもしれないのですが、全然そんなことなくて。簡単に言うと、リリースを前で離そうとしていたのをリリースを上から叩こうとしたらああなったという感じです。それ以外はテイクバックをコンパクトにしている意識もないので、フォームを変えたという感覚はないです。(リリースの)意識を変えただけですね。

――リリースを上から叩きつけるという意識にしようと思ったきっかけはありますか

 僕が大学4年生ぐらいの時に、阪神にいらっしゃった藤川球児さんがブレイクしたのですが、それでたまたま新聞を見た新聞記事がきっかけですかね。藤川さんも右膝が曲がってしまって、低いところに あの重心があったのを高いところに重心を置くことでボールを(上から)叩けるようになって、ボールの質が変わったという記事を目にしました。実際に膝に添え木を当てて、膝が曲がらないようにして矯正したみたいなこと書いてあったので、僕もやってみようと。それでやってみたらすごい感覚が良かったので、その意識に変えました。

――現在のフォームの原点は大学時代からあったのでしょうか

 その新聞記事を見たのは社会人4年目、5年目ぐらいなので、社会人に入ってからです。

――佐竹さんといえばやはり精密な制球力ですが、制球力が向上したきっかけはあるのでしょうか

 1つは、さっき言ったように、上から叩こうという意識にしたことです。体が横回転しなくなったというか、 縦に体を振れるようになったので、左右にボールがブレることがなくなったので、それがコントロールが良くなった1つのきっかけではあると思います。あとは考え方ですね。簡単な言葉でメンタルと言うのですが、僕はメンタルというのは考え方だと思っています。マウンド上での考え方をより自分にポジティブになれるように、いろんなことを自分で試しながら、こういう時はこうやって考えた方をしたら、いい結果が出るなとか、腕が振れるなとか、 自分の心に波ができなくなるな、冷静さを保てるなっていうのをいろんな試合で、試行錯誤しながらやっていった結果、マウンド上で落ち着いて投げられるようになりました。それがコントロールが良くなったきっかけかなと思います。

――社会人になってから大学時代の教えが生きたな思う瞬間はありましたか

 もう全部なんですよね。結局、僕は高校は本当に独学でというか、自分1人でやってたようなものなんです。実力だけでやっていたのですが、大学に入ってバッテリーを組んだ先輩のキャッチャーの方から、配球だとか「こういう時はこうやって投げた方がいいよ」みたいなのを教えてもらったりというのがあるので、それは今の自分にとって財産になっています。これがよかったというのはなくて、本当にその時教えてもらったこと全部が、今につながっていると思っています。もちろん取捨選択もしていくのですが、大学時代にいろんな人にいろんなことを教えてもらったことは今に生きていて、特にこれと言われると、困るので、全部というしかないです。

「本当に僕は社会人野球のとりこにされました」

2016年の都市対抗決勝で登板する佐竹

――佐竹選手にとって都市対抗野球と日本選手権の違いはどのようなものがあるとお考えですか

 やっぱり都市対抗の方が歴史と伝統があるので、「社会人野球=都市対抗」というのは僕だけではなくて、他のチームの皆さんとの共通認識だと思います。よく「春の選抜と夏の選手権」みたいな感じで「秋の日本選手権と夏の都市対抗」みたいな感じで言われるのですが、そこまでは近くないと思います。春の選抜で優勝したら、もう本当に日本一みたいな感じなのですが、社会人の場合は日本選手権で優勝しても、都市対抗で優勝しないと本当の日本一になったとは言えない感じがします。 都市対抗で勝って初めて評価されるのが社会人野球という感じなので。もちろん日本選手権優勝も単独チームですし、補強選手もいないので、すごいことだとは思うのですが、都市対抗の方がお客様も入りますし、注目もされるので、そこは全然違うかなと思います。僕らの場合は特殊で、ずっと日本選手権ばかり優勝していて、都市対抗では全然勝てなかったので、なおさら都市対抗で勝ってなんぼという気持ちがあったのも事実なので、余計に都市対抗で勝ってこそ日本一という気持ちがトヨタの選手は強いかもしれないです。

――今年、都市対抗野球で2度目の優勝を果たされましたが、1度目の優勝とはどのような違いがありましたか

 1度目は5試合戦って、2点しか取られていないので、本当にピッチャー中心としたディフェンス力で勝ち上がった、接戦をモノにして勝ち上がったという感じだったのですが、今年に関しては、もちろんピッチャー中心の守りを前面に出すトヨタの特徴は 変わってなくて、5試合で6点しか取られていないのですが、その上で得点力もすごい上がっていて、足と絡めて、少ないチャンスでもしっかり得点してということができたので、野手陣もすごい成長したというか、 本当に5試合とも投打が噛み合った優勝だと思うので、ヒヤヒヤすることもあんまなかったかなと思います。あとは倒していった相手が、本当に名門と呼ばれるようなチームばかりを5試合倒していったので、そこの部分も今年の優勝というのは、本当に、また一味違った優勝だったのかなと思います。

――佐竹選手ご自身の気持ちの違いはありましたか

 16年の初優勝の時は自分が全部投げて勝つぐらいの意識で東京に乗り込んで、 そのまま有言実行じゃないですが、ほとんど自分が投げて勝った形で。 どちらかと言うともう責任感とかそういうところが大きかったですが、今年に関して言えば、本当にいいピッチャーないっぱいいましたし、若い子たちが東京ドームで暴れて、 勝つことでさらに成長してほしいなとは思って見ていました。その中で、もし自分が(マウンドに)行くことになれば、社会人の場合は勝つことで、また次の試合ができるので、負けてしまったら、そこで終わってしまうので、そういう成功体験を若い子に積んでもらうためにも、僕が行くときにはしっかり結果を出して、チームに勝利を導くようなピッチングしなきゃいけないなと思って、準備していました。

――佐竹選手はトヨタ自動車でも日本代表でも背番号は19番を付けられていますが、なにかこだわりはあるのでしょうか

 僕が入る前の年にドラゴンズにいた吉見(一起氏)がちょうどドラゴンズにドラフトで入って、ピッチャーの番号が19番しか空いてなかったんで、そのまま19番になったという感じです。

――背番号を変えることは考えませんでしたか

 そうですね。そんなに悪い番号でもないと自分でも思っていますし。一度2年目に上がる時に、ちょうどその年にプロに行った先輩が18番を付けていたので「来年はお前が18番付けたら」と言われたのですが「恐れ多いのやめときます」と言って、そのまま19番にしています。

――日本代表でもそのまま19番ということでしょうか

 そうですね。自分から希望してるわけじゃないのですが、多分年が上なので気を遣ってくれてるのだと思います(笑)。

――先程お話にあった吉見一起氏は現在トヨタでテクニカルアドバイザーをされてると思うのですが、吉見氏も現役時代、コントロールを売りにしていたというところで、お話をされることはあるのでしょうか

 彼は年は1個下なのですが、(吉見氏が)現役の時に、自主トレとかでトヨタに、帰ってくることがあって、僕も若い時だったので、そういう時にはコントロールの話を聞いて、考え方が大事だなという話をしていました。僕もコントロールが良くなって、今、吉見が来るようになって、考え方が大事だというのは共通認識です。技術のコントロールも大事ですが、心のコントロールの方が大事かなというのは吉見と話していても思います。

――2014年のアジア大会以来、社会人日本代表の常連としてプレーされていると思いますが、佐竹選手にとって、代表でプレーするということはどのようなものだと感じていますか

 やっぱり社会人野球で野球をやっている以上、 日本代表に選んでいただけるということはすごく光栄なことですし、一度代表のユニフォームに袖を通すと、 また来たいと思うのが日本代表だと思います。 もちろんユニフォームに袖を通した時の気の引き締まり方が違いますし、やっぱり日の丸を背負うというのは、何事にも変えがたい経験なので、それをまだこの年まで経験させてもらっているのは本当にありがたいと思っていますし、だからこそ、結果で恩返ししないといけないというのは常々思っています。

――入れ替わりが激しい社会人野球界で選手生活18年目を迎えられている理由はご自身ではどこにあると考えていますか

 1つはなんと言うか危機感ですね。もういつ自分自身が野球をやれなくなるかもわからないというか、言ってしまえば今年終わったタイミングでもう野球ができなくなる可能性があります。トヨタは入れ替わりが激しい部なので、それを1年目の時からずっと思っていました。若いからという理由だけで、また来年もやれるという保証はなかったので、好きでやってる野球を来年やれなくなる、 新しいものにすぐ挑戦してみるという気持ちが結構強いです。 言い方変えたら、現状に満足していないというところかもしれないです。例えば、ダルビッシュ(有、パドレス)が使っている道具だとかを見ると、すぐ買って試してみるなど、そういう好奇心旺盛なところもこの年までやれている1つの要因かなと思います。

――新しいものに挑戦されるということで、なにか最近新しく挑戦されたことはありますか

 本当に色々あるのですが、サプリメントを買ってみたりだとか、足の裏の神経を刺激するようなインソールを買ってみたりだとか。 あとはまだ結果は出てないのですが、遺伝子検査を受けたので、その結果でまた面白い発見があるんじゃないのかなとは思っています。

――トヨタ自動車野球部のホームページ内のプロフィールのアピールポイント欄で年と書かれていますが、年齢やキャリアを重ねたからこそできるようになったことはありますか

 急激に変わるわけではなく、やっぱり年も徐々に重ねていくので、変わっていくことも徐々に変わっていくという形ですね。いきなり「ベテランになったからこうなりました」みたいなことはあんまりないです。 さっき言った考え方の話とちょっと似ているのですが、マウンドでドギマギすることはなくなりました。めちゃくちゃプレッシャーがかかって地に足がつかないだとか、めちゃくちゃ緊張して足が震えてるとか、そういうことはここ何年かは全然ないです。10年ぐらいないですね。まあそれはいろんなことを経験して、平常心でマウンドに上がる術というのをいろいろ身に着けてきた結果だと思っています。何が変わったかと言われたら、その点は若い時とは違うかなと思います。

――佐竹選手は各所で「ミスター社会人」と呼ばれることも多いと思うのですが、「ミスター社会人」と言われることに関して、佐竹選手ご自身ではどのように感じていますか

 まあ1人の人間なので、そうやって言ってくださっていることに関しては正直、嬉しくもないし、鬱陶しくもないという感じです。僕がコントロールできるところではないので。そうやって呼んでいただけていることに関しては言い方悪いですけど、なんとも思わないというか、僕は僕なので。佐竹功年は佐竹功年だし、周りはそうやって言っている人もいるかもしれませんが、僕は佐竹功年として バッターと勝負して、野球をやっているので。あまり誇らしいとかそういうのはなくて。 どっちかというと、恥ずかしい方が勝っているのですが(笑)。周りの評価は自分でどうこうできるものじゃないので、「1人の人間だけどな」と思いながら流しています。

――これまでプレーされてきた野球のカテゴリーの中で、社会人野球で1番長い時間を過ごされていると思うのですが、これだけ長い時間プレーした社会人野球の魅力というところは、佐竹選手ご自身のどのようなところにあると感じていますか

 僕は社会人野球が1番面白いと思っています。プロ野球を経験しないので、プロ野球の面白さはなんとも言えないのですが、この年までこんなに熱くなれる野球はなかなかないと思います。本当に僕は社会人野球のとりこにされました。だからもし若い時にプロから声かかっても多分(トヨタ自動車から)出なかったですし、高校、大学、プロに比べれば、やっぱりまだまだ社会人野球の知名度というのが低いので、そこをなんとか知名度をもっと上げて、見に来てくれる人を増やすことができれば、もっと社会人野球の面白さを伝えることができるなと思っています。ぜひ、早稲田スポーツの力を使って、 早稲田生を都市対抗に呼べるような記事を書いてください(笑)。まあ、わかりやすく160キロ投げました、ホームラン打ちましたみたいなすごさというのは確かにプロの方がすごいと思うのですが、やっぱりこの1球に懸ける熱量というのは社会人野球に勝てるところ(ジャンル)はないと思うので、 もちろん応援もすごい楽しいですし、1回騙されたと思って見に来てほしいですね。

――佐竹選手はメディア取材やYouTubeなどにも積極的に出演されている印象がありますが、そういった活動も社会人野球の知名度を上げたいという思いからなのでしょうか

 そうです。社会人野球はどんどんチーム数が減っていくっていうところが現状で。なんでチーム数が減るかというと、会社が野球部に対して価値を見出せないということだと思うので、社会人野球界がすごい盛り上がって、それだけ観客も入れば、絶対にチームを休部にするということを会社はしないと思います。そのためにもどんどん(社会人野球を)盛り上げていって、さっきも言ったように、たくさんの人にこの面白い野球を見に来てほしいなという思いが1番あるので、1人でも見に来てくれる人が増えればいいなと思って、いろんな活動をさせてもらってます。

――そこまで佐竹選手を社会人野球のとりこにするものはどういったものなのでしょうか

 まずは負けたら終わりのトーナメントで、予選というものすごい厳しい戦いがあります。会社を背負っていますし、負けたら会社行った時に、肩身が狭いですし(笑)。そういうプレッシャーに立ち向かいながら、絶対勝つんだという気持ちで1球に命を懸けてやっているところが社会人野球の魅力だと思います。本当に後先考えないというというか、明日を考えないプレーをするのが社会人の魅力だと思って、 そのあたりをぜひ見に来てほしいなと思います。

――ちなみにトヨタ自動車の注目ポイントはどのようなところですか

 もう本当にタレント揃いですね。実力を持ったピッチャーがたくさんいて、それを中心とした9人の守備力はどのチームにも負けないと思ってるので、その辺の緻密な守備力も見てほしいです。あとは走塁ですね。本当にみんな自信を持って、試合の中で駆け回っているので、機動力というのは見てほしいなと思います。

――早慶戦の後には日本選手権が控えていると思いますが、トヨタ自動車のこの選手に注目だ、という選手はいらっしゃいますか

 今、旬なのは嘉陽宗一郎という今年の都市対抗でMVPに値する橋戸賞を受賞したピッチャーです。本当に素晴らしいボールを投げるし、 なおかつコントロールがいいので、「このピッチャー打てないぐらいだったらプロには行けないよ」と思って大学生は見てほしいと思います(笑)。

「(早慶戦では)幸せを感じて球場で暴れまくって」

今夏の全早稲田戦で投球する佐竹

――佐竹選手は指導者になるなどの引退後のキャリアプランなどはありますか

 サラリーマンなので、僕が希望したからと言って(指導者は)できるものでもないと思っています。どちらかというと、どうなってもいいように準備してるという感じですかね。「社業に専念しろ」と言われても戸惑わないように、会社に行った時はいろんなことを吸収しますし、「コーチをやれ」と言われても「監督をやれ」と言われてもできるように、アンテナを張っています。今までいろんな監督の下で野球をやってきましたが、「こういうところはいいところだな」「こういうところは悪いところだな」みたいなのは僕も経験してるつもりですし、 そういうことを、準備して損はないので。ただ、本当にどこ行けと言われるかわからないので、 どこに行ってもできる準備をしておくのがサラリーマンじゃないかなと思っています。

――パナソニックで社業に専念しながら、中学硬式野球チーム・枚方ボーイズで指導を行った鍛治舎巧氏(昭49教卒=現県岐阜商高監督)のように社業を行いながら指導を行うというのも考えていませんか

 いや、僕自身多分中学生とか高校生を教える技術がないので。だからできないと思います(笑)。自分からやることはまずないと思います。もしトヨタから「出向でここの高校の監督をやれ」と言われたら、それは仕事としてやるしかないのでやりますけど(笑)。そういうことがない限りは(中高生向けの指導者になることは)ないかなと。社業をやりながら誰かに「ちょっと来て教えて」と言われているとかでならあるかもしれないですが。チームの監督としてというのはないと思います。

――今夏、中京大中京高で1番を背負った佐竹泰河選手(3年)は佐竹選手の甥ということですが、泰河選手にも同じ投手として指導することはなかったですか

 (中京大中京高に)入ってからは、本当に特にこれといった指導はしていません。入る前も僕は年に1回ぐらいしか実家に帰ってないので、その時にキャッチボールとかをしてたくらいです。だけどそれも小学校ぐらいまでの記憶しかないので、「もっとこうやって投げた方がいいよ」みたいな指導は全然してないです。

――将来早大で指導者をやってみたい、監督になりたいといったものもありませんか

 いやいや、もう僕が「早稲田の監督をやりたいです」言ってできるものではないので。それもお話があってから考えることだと思いますし、僕は一応、トヨタ自動車の社員なので。トヨタ自動車の会社としての考えや方針もあるので、1つ言えることは、定年になる前に(トヨタ自動車を)辞めて、早稲田の監督をやることは絶対ないです。もし、僕にそういうお話を頂いたとしても、僕はまだ(トヨタ自動車の)社員で、会社がダメだと言ったら、もうそれはダメですね。それははっきりと言えます。やってみたいか、やってみたくないかという次元の話でもないので。もしそういう話があったら、もちろん家族もいるので、家族とも相談しますし、会社が出向という形で行ってもいいよというのであれば、 それはもう会社の命を受けて行くので、それは仕事としてしっかり責任持って、やることは当然だと思っています。そういう段階なので、自分がやりたいかやりたくないというのはわからないし、なおかつ僕もまだコーチも監督もやったことがなくて、指導者経験もないので。もしトヨタで指導経験ができたら、 また心境は変わるかもしれませんが、今は特にないです。

――可能性があるとすれば、一昨年までトヨタ自動車からの出向という形で慶大の助監督を務めた竹内大助氏のような形ということですね

 そうですね。あとは定年後とかですね。

――改めまして、早大に入ってよかったなと思ったことというのはどういうものがありますか

 僕が入った時は4連覇から始まって、(在学中の)リーグ戦が8回ある中で5回優勝させてもらって、本当に強い時に入らせてもらって、勝つ集団というのを肌で感じることができました。こういうチームが勝つんだ、こういうチームが強いチームだ、というのを組織としても個々の考え方も学ばせてもらいました。それは本当に早稲田での財産だし、トヨタの組織を作っていく中で、僕自身すごく参考にさせてもらいました。野村監督や應武さんに早稲田の野球というのを叩き込まれて、それが本当に今の自分の野球人生に影響しています。一球を大事にする、準備を大切にするというのが早稲田の野球だと思うので、ぜひそこを今の学生の皆さんには頑張ってほしいなと思います。

――佐竹選手にとって早稲田大学野球部というのはどのようなものですか

 僕にとっては野球の原点でありますし、強くあり続けなきゃいけない野球部だと思っています。

――早慶戦を観戦する学生に向けてのメッセージを最後にお願いします

 早慶戦という大学野球の中で特別な試合というのは、早稲田の学生と慶応の学生しか経験できないものです。本当にそれがどれだけ恵まれているというか、ありがたいことかというのが、今はわからないかもしれませんが、卒業してから本当にすごいところにいたなというのが、学生も野球をやっている野球部のみんなもわかると思うので、ぜひ思い切り秋の早慶戦を楽しんでください。また、応援に来ていただいている学生の皆さんには選手にパワーを送っていただいて、 野球部の皆さんは心の底から楽しんで、こんな経験できることもこの先あまりないので、 幸せを感じて球場で暴れまくって、絶対慶応に勝ってください。

――ありがとうございました!

(取材・編集 星野有哉 写真 共同通信社提供、帖佐梨帆)

◆佐竹功年(さたけ・かつとし)

1983(昭58)年10月14日生まれ。169センチ、74キロ。香川・土庄高出身。 2006(平18)年人間科学部卒。投手。早大在学時は1年春から東京六大学リーグ戦(リーグ戦)に登板し、リーグ戦通算成績は27試合4勝4敗、防御率1.80。在学中は5度のリーグ戦優勝を経験し、4年春には胴上げ投手となった。卒業後は社会人野球の名門・トヨタ自動車に入社し、主力投手として6度の日本選手権優勝に貢献。今夏には2度目となる都市対抗野球優勝を果たした。今年のアジア大会では最年長メンバーながら3試合で登板するなど社会人日本代表でも活躍中