【連載】平成27年度卒業記念特集『覇者たちの球譜』 第7回 吉永健太朗

野球

復活へのロード

 夏の甲子園優勝投手が、もがき苦しんだ。鳴り物入りで早大に入学した吉永健太朗(スポ=東京・日大三)の過ごした4年間は決して順風満帆ではなかった。着々とステップアップしていく同期を横目に、自らは納得のいく投球フォームを模索する毎日。最後までゴールは見えずに早大野球部での生活は終わった。「(4年間は)あまりいい印象がなかった」とまで語った吉永。言葉の端々からはその苦悩を感じ取れた――。

 2011年(平23)の夏、甲子園の主役は吉永だった。140キロ台後半の直球と鋭く落ちるシンカーを武器に、全国の頂点をつかんだ。日本一の右腕にプロのスカウト陣も注目。その年のプロ野球ドラフト会議でも上位指名の候補だったが、早大への進学を決めた。「いまのままではプロでは通用しない」。さらなる高みを目指し、神宮の舞台へ足を踏み入れた。「自信と不安が半々だった」という1年の春は、前評判通りの活躍。ルーキーとして史上初の東京六大学春季リーグ投手3冠に輝き、華々しいデビューを飾る。しかし、吉永の中にはどこか拭い切れない気持ちがあった。「正直、なぜ抑えられたかも分からない。ピッチング自体も全然良くなかった」。同年の秋、春に比べて成績は下降した。「この辺りから崩れ始めていった」と振り返るように、徐々に歯車が狂っていく。

模索を続けながらもマウンドで全力投球する姿は変わらなかった

 不調の原因は、「大学に入って自分の時間が増えて細かいところまで考えるようになって、逆に投球フォームがどんどん分からなくなっていった」と言う。吉永自身が語る『神経質』という性格も相まって、出口の見えないトンネルに入ってしまった。学年は上がり、同期が主力として活躍する傍ら、登板機会は減少していく。しかし、この時期に学んだこともあった。「枝の部分を修正するのはいいが、軸をしっかり持つ」。時間はかかったが、復活への道しるべが見え始めている。

「このまま投げることを継続できたらプロに行けると思っていた」。吉永は高校3年時にこのように未来像を描いていた。しかし、たどってきたのは苦難の道のり。「後悔はない。この4年間がプロだったらクビになっているので。ダメな時期を経験できたかな」と言い切る。遠回りをしたからこそ気付けたこともあった。見据える先は、プロのマウンドに立つ姿。「ケガをせず年間通してプレーできるようになればプロに行ける自信はある」。あの輝きを取り戻すべく、再び出発進行する。

吉永選手にとって早大野球部とは『鍛錬の場』

(記事 井口裕太、写真 杉田陵也、中川歩美)