【連載】『令和2年度卒業記念特集』第45回 小野寺雅之/バドミントン

バドミントン

日本のトッププレーヤーに

 「1日1日が濃かった」。小野寺雅之(スポ=埼玉栄)は、早稲田での4年間をこのように振り返った。1年時からチームを引っ張り、全日本学生選手権(インカレ)をはじめとした学生大会で勝利に貢献。さらに日本代表として出場する試合でも結果を残してきた。早稲田として、主将として、日本代表として、さまざまなものを背負って戦い続けた。そんな小野寺の4年間、そしてこれからの目標について迫る。

 高校時代から、強豪校で活躍してきた小野寺。高校卒業後には実業団でプレーする選手も多い中、小野寺が選んだのは早稲田への進学だった。理由の一つは、教員免許を取ること。小さい頃に両親が教師として働く姿を見て、憧れを抱いた。その中でも早稲田を選んだのは、バドミントン部の誇る強さだった。「当時強い先輩がいたので、そこでやっていきたいと思った」と、実力あるチームでプレーできる環境に惹かれ、早稲田への進学を決意した。昔から団体戦を1番にやってきたという小野寺は、「大学に入って初めての全国大会の試合で、最後のダブルスで勝って優勝できたことは印象的」と、1年時のインカレが最も印象に残っていると振り返る。優勝がかかった団体決勝。男子ダブルスで出場した小野寺は、ファイナルゲームの末に勝利し早稲田を24年ぶりの学生日本一に導いた。その喜びは小野寺にとって忘れられないものだった。

 3年生の後半になると、小野寺は男子主将としてチームをまとめる存在に。目標としていたのは、インカレでの『アベック優勝』。3年時の団体戦は台風で中止なったものの、それまで男子部は連覇を果たしていた。目標を実現するため、小野寺が取り組んだのは「女子も優勝できるように、男子だけでなくて女子と練習を交えながらお互いを高めあって楽しく練習する」こと。学生主体の練習である早稲田のバドミントン部は、他大学のように監督がついて練習が行われるのではなく、学生が自らメニューを考え実行する。そのため、小野寺を中心としてチーム全体で考えながら練習に励み、『アベック優勝』を目指してきた。しかし、新型コロナウイルスの流行によって、インカレは中止に。「優勝はしたかった。みんなにも味わわせたかった」。インカレ以外にも学生大会は軒並み中止となってしまったラストイヤー。それでも、4年間を共に過ごした同期の存在は大きかった。同期は小野寺を含めわずか3人。だからこそ、一人一人がきちんとやるべきことをやり、お互い協力し合ってきた。4年間を通して「つらいっていう思いをしたことは僕の記憶の中ではない」と語ることができるのは、この3人で助け合ってきたからなのだろう。

全日本総合選手権で岡村と手を合わせる小野寺(左)

 卒業後、小野寺は日本ユニシスでプレーをすることが決まっている。日本代表にペアとして選出されている岡村洋輝も所属するチームだ。「オンとオフがしっかりしていて、なおかつトッププレーヤーの選手もいるので、素晴らしい環境」であると魅力を語る。高校時代から声をかけられており、大学卒業後にはこのチームへ行きたいという思いがあった。世界大会でも結果を残してきた実力ある選手が数多く所属する中で、切磋琢磨(せっさたくま)してやっていきたい。そして日本のトッププレーヤーが所属するチームで、いつかは追い越して自分がそんな存在になれるように。そんな思いからこのチームへ入団することを決意した。

 小野寺が日本のトッププレーヤーを目指す理由の一つには、支えてくれた人たちへ『恩返し』をしたいという思いがあった。同期に対して、新しいチームの環境に対して、様々な場面で感謝の気持ちをあらわにしていた小野寺。「いろいろなサポートがあってここまでで来ていて、絶対自分一人でここまで成り上がることはできなかった。だからそういう人たちに結果で恩返ししたい」。日々練習に励む原動力には、そんな周りへ『恩返し』をしたいという思いがあったのだ。

 支えてくれた人たちへ結果で『恩返し』をすべく、努力し続ける小野寺。その謙虚な姿勢がプレーヤーとして、人として、より一層強くしているのだろう。日本のトッププレーヤーになる。新たな環境へ踏み出した小野寺は、その目標へと着実に近づいている。

(記事 渡邉彩織、写真 SMASH and NET. TV)