共に歩み続けた『一丸』
今年度、米式蹴球部の主将を務めた亀井理陽(法=東京・早実)。どんな時も「チームファーストの行動を心がけてきた」という亀井。大好きなチームであるBIG BEARSに絶対迷惑をかけてはいけないという思いからだ。大学でアメフトを始めた身でありながら、主将という責任ある立場を『一丸』というスローガンを掲げて全うしてきた。亀井がBIG BEARSと共に歩んできた4年間に迫っていく。
兄の影響で小学生の時に始めた野球。高校までの亀井は野球をプレーする者なら誰もが夢見る甲子園の舞台を目指し、日々グラウンドで白球を追いかける1人の球児だった。チームが甲子園出場を果たし、亀井もベンチ入りはしていたが、甲子園で試合に出場することはかなわず。試合に出られない悔しい気持ちを胸に抱きつつも高校野球の舞台に幕を下ろした。
悪化していたケガの影響もあり、高校までで野球を引退。大学からはスポーツに限らず新たな挑戦をしようと考えていた矢先、早実時代からの友人である若原碧飛(社4=東京・早実)らに誘われて行った見学会で早大米式蹴球部・BIG BEARSに出会った。亀井はアメフトという競技自体よりも「BIG BEARS自体に魅力を感じた」と当時を振り返る。その場で入部を決めることは出来なかったが、その日見た景色が頭から離れることはなかった。亀井は考えに考え抜き、米式蹴球部への入部を決意。晴れてBIG BEARSの一員となった。
雨の中の試合でも味方を鼓舞し続ける亀井
入部したてのころを「実際にやっていくとなるとルールも何もわからない。本当にやっていけるかは不安だった」と語った亀井。それでも先輩たちの過去の試合映像を見て、アメフトを勉強。1年生の新人戦では未経験者ながらゲームキャプテンに抜擢(ばってき)され、見事にチームを引っ張った。秋にはユニフォームを着て、グラウンドに立つことも経験し、なにも知らないところから始まったアメフトという競技にのめり込んでいった。
2年生の秋から下級生ながらスターターとして経験を積んだ。亀井は「自分のことに一杯一杯で周りをあまり見えていなかった」とこの年を振り返る。コロナウイルス感染拡大の影響で秋のリーグ戦がほぼ初めての実践というイレギュラーな事態。そんな中で契機になったのが秋季リーグ戦の明大戦であった。その試合は亀井がBIG BEARSに入部してから甲子園ボウル以外の公式戦で初めて負けた試合であった。それまでは試合に勝ち喜ぶ姿や次の試合を目指す姿ばかりを見てきたが、敗北で先輩たちが泣き崩れるところを見て、厳しい勝負の世界と負ける怖さを改めて知ったという。
3年時には前年からスターターとして重ねた経験により、1つ上の先輩たちからも一目置かれるBIG BEARS屈指のOLへと成長。それでも秋の法大戦は、「個人としてもOLユニットとしても通用せずという戦いでした」と振り返るほど苦しんだ。勝てば東日本選手権に進める試合だったが、3年間やってきたことが通用しなかったのはかなり落ち込んだという。
法大戦での悔しさを胸に最高学年となった亀井は自ら立候補して主将に就任。自らをチームの先頭に立ち引っ張るタイプではなく、協調性を持って仲間たちと共に歩むタイプのリーダーと分析した。部員が200名近い大所帯の米式蹴球部での少人数が日本一になりたいと思っても頂点へは届かない。チームの1人1人がどれだけ当事者として日本一を目指せるかが重要ということで、『一丸』がチームのスローガンとなった。
甲子園の舞台にフットボーラーとして帰ってきた亀井
秋季リーグ戦では同期を中心に強力なOL陣を形成。リーグトップのオフェンス力を誇るチームをけん引し、最終戦の宿敵・法大戦まで『一丸』となり全勝でリーグ戦を勝ち抜いた。必ず昨年のリベンジを果たすと誓った法大戦を「1年間やってきたことが報われた1戦だった」と語る亀井の言葉でどれほど思いを懸けてきたかが伝わってきた。そして念願の甲子園の舞台に立った亀井率いるBIG BEARSであったが、甲子園ボウルでは絶対王者である関学大に敗北した。試合終了後、目に涙を浮かべながらも気丈に整列した亀井の姿があった。
卒業後はアメフトを引退し、一般企業へ就職する亀井。4年間苦楽を共にしたBIG BEARS、そして同期たち。「第2の家族」である彼らにはどんなことでも話し、全てをさらけ出してきた。そこで得た経験は「そのまま社会に生きていくと思っている」と言うように、いいことも悪いことも、努力すれば結果が出ること、怠れば夢くじかれることも経験した。亀井は自分たちが甲子園で勝つことはBIG BEARSに関わる人への「使命」だと考える。甲子園での敗北を知った下級生たちへ期待を残し、次世代へと「使命」は続いていく。
(記事、写真 田部井駿平)