【連載】『令和3年度卒業記念特集』第23回 石丸圭吾/米式蹴球

米式蹴球

初志貫徹

 順風満帆ではなかった。自他ともに認める不器用さがあった。それでも一貫して圧倒的な努力を積み重ね、徹底的にやり遂げた石丸圭吾(政経=埼玉・栄東)の4年間。ラストイヤーはディフェンスリーダーとして、副将としてチームをけん引した。そんな石丸の歓喜と苦悩の4年間を振り返る。

 ラグビー少年だった石丸は、早大ラグビー部に入って赤黒に袖を通して戦うことに憧れを抱き、早大の付属高校を受験。しかし、結果は不合格。唯一受かった高校にはラグビー部がなく、同じ楕円(だえん)の形をしたボールを使うアメフト部にしかたなく入部した。しかし、入部して間もない頃、アメフトを知る目的で大学のアメフト早慶戦を見に行ったことが大きな転機となる。ルールは全くわからなかったが、エンジのユニフォームを着て戦うBIG BEARSの戦士たちが「めちゃくちゃかっこいい」と感じた。競技は違えど、エンジを身にまとって早稲田を背負って戦うことに強い憧れを抱き、BIG BEARSの一員になることを決心。死に物狂いで勉強し、早大合格をつかみ取った。

 早大に合格し、やる気に満ち溢れていた石丸は、新入生の中で誰よりも早くBIG BEARSにコンタクトを取り、入学前から練習に参加した。しかし、新入生が次々と練習に参加してくる中で、その体格や実力の違いに圧倒されていく。憧れを抱いて入ったのに、早くも打ちひしがれる日々。それでも、体の大きさだけは努力で埋められると考え、体重を増やすことや筋トレなどを人一倍取り組み、できることから必死に食らいついていった。そんな地道な努力の甲斐あって、泣かず飛ばずの日々が少しずつ変わっていき、2年時にはようやく試合に出られるようになった。しかし、このタイミングで大けがに見舞われる。コツコツと積み重ねてきた日々がようやく報われようとした中で、「憧れ」はふたたび遠のいた。これには流石にこたえたが、それでも当初から抱いていた「BIG BEARSでスタメンを取って活躍する」という揺るぎない決心や、2学年上で活躍していた野城翔也(令2創理卒=東京・西)の献身的な支えなどが原動力となり、できる練習を懸命に取り組んだ。けが明けの3年春、この期間の地道なトレーニングが身を結び、ポジション別で行われた測定会で上位にランクイン。コロナ禍の厳しいシーズンとなったが、自粛期間中もウエートトレーニングをするなど確かな努力を続け、自粛期間明けの試合でようやくスタメンを勝ち取った。目立った活躍はできなかったというが、それでも着実に試合に慣れていった3年目のシーズンだった。

激しいタックルを決める石丸

 3年目のシーズンが終わり、石丸は副将に就任。3年秋の明大戦、敗北して甲子園ボウル出場が断たれたこの試合の中で、自分のミスでTDを取られたことが悔しかった。まわりに迷惑をかけないようにという気持ちでプレーしていた自分を反省し、選手として自分が圧倒的に努力して試合で活躍し、チームを勝利に導くという思いで副将に就任した。また、スポーツ推薦の選手で構成されていないBIG BEARSには初心者をはじめ、多種多様な選手が在籍している。そのなかで、決して順風満帆ではなかった自分が副将としてチームをけん引することで、そういった後輩たちの指針になればという思いもあった。最後の試合となった法大戦では「勝ちたいという思いが強すぎて冷静になることができなかった」と振り返るも、その前の明大戦では試合終盤の嫌な流れの中でチームを勝利に導く値千金のインターセプトを決めるなど、シーズンを通して存在感を示し続けた。

 「本当に楽しかった。辛いことや苦しいこともあったが、憧れた場所でアメフトができてとても幸せだった」。石丸はBIG BEARSでの4年間をこう振り返る。最後にあえて「甲子園で勝つことの価値」と問うと、「応援してくださる方と喜びを分かち合えること」と答えた後に「日本一のLBになりたかった。野城さんが成し遂げられなかったことを自分が成し遂げたかった」と本音をこぼした。悲願達成とはならなかったが、目標達成に向けての努力やその質の高め方は誰よりもこだわってきた。その姿勢は後輩たちに受け継がれるとともに、今後の石丸の人生にも大いに生きることだろう。

(記事 安齋健、写真 早大米式蹴球部提供)