愚直
「本当に申し訳ない気持ちでいっぱい」――。永山開一(教=東京・足立学園)は何度もこの言葉を口にしながら、忘れられない敗北の味を噛み締める。低学年時からBIG BEARSのDLとして試合に出場し、ビッグプレーを量産してきた永山。4年時には自ら主将に立候補し、生活の全てを「学生日本一」のために費やしてきた。誰よりも『愚直』にフットボールと向き合い、チームに影響を与え続けた永山の「これまで」と「これから」に迫る。
フットボールとの出会いは高校入学時。小さい頃から続けていたサッカーを高校でも続けようと思っていたところで友人から誘われたアメフト部。当初は高校から新しいことを始めるのも悪くはないかといった程度で始めたアメフトだったが、ある試合を見たことで気持ちは一変する。その試合はBIG BEARSが立命館大に1点差で敗れた第70回甲子園ボウル。それまで関西勢が圧倒的な力を見せていたなかで、関東の大学がここまでやれるのかという驚きがあったという。関西のアメフト強豪校から誘いを受けるなかで、必死に受験勉強をして早大に行くことを決意した。懸命な勉強の甲斐あって、無事合格を掴み取り、晴れてBIG BEARSの一員となる。
コイントスの前にチームメイトから見送られる永山
BIG BEARSに入部した永山は、1年時の秋季リーグ戦から少しずつ試合に出場するようになり、その翌年からはスタメンとしてBIG BEARSのディフェンス陣をけん引。甲子園ボウル出場にも大きく貢献し、あの日見た憧れの舞台で躍動した。敗れはしたものの「最高の光景だった」と4年間で印象に残っている試合のひとつに挙げている。3年時にはディフェンスの主任となり、より一層BIG BEARSを引っ張っていく存在へと成長。しかし、この年はコロナ禍の影響で試合の数が大幅に減り、スポーツ推薦の選手で構成されていないBIG BEARSはチーム作りに苦戦。結果的に3年時はチームとして悔しい結果に終わった。そして迎えたラストイヤー。日本一になるには部員一人一人の1プレーに対するハングリー精神が必要という考えから、「愚直」というスローガンを掲げた。そして永山は誰よりも自分が「愚直」であることを体現することができるという自信のもと主将に立候補した。
明大戦でロスタックルを決める永山
永山の代は例年に比べて人数が少ない代であったが、さまざまなバックグラウンドと考え方を持つメンバーが多く、頻繁に意見が衝突した。永山自身もハドルで同期に怒鳴ることがあったという。それでも全員が「甲子園で勝つ」という強い思いに迷いはなく、向かう先は同じであった。秋シーズン終盤になるにつれ、嫌になるほど互いを知り尽くしたことで足並みがそろい、チームとしての完成度が高まっていったという。難敵明大にリベンジを果たし、迎えた関東の1位決定戦。BIG BEARSに関わるすべての人の思いを胸に、全責任を負う覚悟で臨んだ大一番であったが、永山は試合の序盤で負傷。痛み止めを飲んで無理して出場し続けることも考えたが、「チームが勝つためには」と、控えメンバーに思いを託した。永山を欠いたディフェンス陣は、最後まで奮闘し、まとまりのあるディフェンスを見せるも、チームとしてあと一歩及ばず敗北。甲子園への道が断たれた。試合後、高岡勝監督(平4人卒=静岡聖光学院)に抱えられながら横浜スタジアムを去る永山の姿があった。その目には大粒の涙があふれていた。
「本当にフットボールしかやってこなかった」――。限界を作ることを嫌い、完璧を追い求め続けた永山の4年間。この4年間で底辺と頂点の世界を見ることができたという。卒業後もフットボールを続ける永山は、「今の自分は最低の部分に落ちきった」と答えた上で「自分の姿をみて挑戦をしてくれる人が一人でも増えたらいいなと思う。こんな自分でもここまでできるということを証明して、夢や希望を与えられるような選手になりたい」と今後の意気込みを力強く語った。どん底から這い上がって栄光をつかむその日まで、永山のフットボール人生は続いていく。
(記事 安齋健、写真 安齋健、佐藤桃子氏)