【連載】『令和7年度卒業記念特集』第57回 井上直紀/競走 

卒業記念特集記事2026

「できないことを知る喜び」を胸に、世界の頂へ

 「学校を休めるから」。そんな小学生らしい動機で始まった井上直紀主将(スポ4=群馬・高崎)の陸上人生は、いつしか日本のトップそして世界を争う舞台へとつながっていた。臙脂(えんじ)のユニホームをまとい駆け抜けた4年間は、決して平坦な道ではなかった。度重なるケガ、主将としての重圧、そしてあと一歩で逃した世界への切符。しかし、そのすべてを経てなお、井上は晴れやかに言い切る。「やってきたこと自体に、大きな価値があった」と。

 小学生時代、野球少年だった井上が陸上の道に足を踏み入れたきっかけは、意外にも地元の群馬で平日に開催される大会に出場すれば、学校を休めるという理由からだった。だが、その頃から高い潜在能力を発揮し、頭角を表す。高校時代は、満足いく練習環境がそろわない中でも探求を重ね、全国高等学校対校選手権(インターハイ)100メートル2位という実績を引っ提げて、名門・早大の門を叩いた。

 数ある強豪大学の中から早大を選んだ理由は、練習見学で触れた先輩たちの「会話のレベル」だ。「走りに対する解像度の高さが、衝撃的だった」。入学当初こそ周囲とのレベルの差に苦しんだが、自身の現在地を冷静に分析し、2年時の冬季練習で劇的なアップグレードを果たす。10秒1台をターゲットに見据えた肉体改造が結実し、学生個人選手権制覇、ワールドユニバーシティゲームズ代表選出と一気に学生を代表するスプリンターへと進化を遂げた。しかし、急激な進化は心身のキャパシティを削り、シーズン後半はケガと不調に悩んだ。「一番苦しい時期」と振り返るが、この挫折が井上をより強い競技者へと成長させた。

 苦境を乗り越えた3年時、井上は確かな手ごたえをつかむ。日本学生対校選手権で刻んだ4×100メートルリレーの学生新記録。個人で高みを目指してきた井上にとって、信頼を寄せる仲間と最高のかたちで歴史を塗り替えたこの瞬間は、自らのプランが正しかったことを証明する大きな転換点となった。

 そして迎えた最終学年。井上の前には、2つの大きな壁が立ちはだかっていた。100人を超える部員を率いる主将としての責務、そして悲願である個人での世界選手権代表入りだ。周囲からは確実性を考慮し、リレーでの代表入りを優先すべきだという声も上がった。しかし、井上は自らの意志を貫く。「個人代表で行かせてほしい」。それはエースとしての矜持(きょうじ)であり、理想を追い求める挑戦者の姿だった。

 しかし、勝負の世界は厳しかった。優勝を狙った日本選手権で4位に終わり、あと一歩のところで世界選手権行きの切符を逃した。「非常に悔しい。あと一枚、足りなかった」。だが、理想を追い求めたその過程に後悔はない。主将としてチームの屋台骨を支えながら、1人のスプリンターとして限界に挑み続けた日々。次なるステージへと突き進むための、揺るぎない土台となった。

 主将としての1年間を語る上で欠かせないシーンがある。正月の東京箱根間往復大学駅伝競走、「花の2区」。権太坂を駆け上がる山口智規駅伝主将(スポ4=福島・学法石川)の傍らを、井上が並走していた。短距離ブロックの選手が駅伝の給水を務める、珍しい光景だった。白石幸誠駅伝主務(人4=愛媛・八幡浜)からの打診に、井上は「ぜひやらせてほしい」と即答した。当日は完璧な給水ができるよう、イメージトレーニングを重ねて挑んだという。1人の競技者として世界を志す男が、この時ばかりはサポートに徹し、苦楽を共にした戦友の背中を力強く押した。そこには、種目の壁を超えた『One 早稲田』の精神が確かに宿っていた。

 卒業後は、慣れ親しんだ所沢を離れ、大阪ガスへと進む。大学を拠点にする選択肢もあったが、あえて未知の環境へ飛び込むことを選んだのは、飽くなき探求心ゆえだ。「できないことを知る喜びを、もう一度感じたい」。自らにプレッシャーをかけ鍛錬を積むのは、2028年ロサンゼルス五輪の100メートル決勝進出という、さらに高い壁を見据えているからに他ならない。「4年前には想像もできないほど成長できた」。臙脂(えんじ)の誇りを胸に刻み、井上はこれからも進化し続ける。その視線の先には、2年後のロサンゼルスの空が、はっきりと見えているはずだ。

(記事 植村皓大、写真 戸祭華子氏、會川実佑、佐藤結)