【連載】『令和6年度卒業記念特集』第52回 浅野翼/男子バレーボール

卒業記念特集記事2025

雨垂れ石を穿つ

 座右の銘は「雨垂れ石を穿つ」。「小さな努力でも根気よく続ければ、やがて大きな成果が得られる」という意味のことわざだ。浅野翼(スポ=宮城・東北)の早大での4年間は常に苦しいものだった。4年生になった1年間は「みんながついて来てくれるキャプテン像」を考えていた。しかし、プレッシャーも多く、葛藤も多かった。「副将」という立場で早大男子バレーボール部を支えた浅野のこれまでの軌跡を振り返る。

 姉に影響を受け、5歳でバレーボールを始めた。最初はセンターポジションにつき、スパイカーとしてチームの中核を担っていた。チームにセッターができるメンバーがいなかったため、小学6年時にセッターにポジションを変更。中学3年時にはキャプテンとしてチームをまとめていた。彼の転機は中学生の時の県選抜。それまでは自分でチームをまとめることも多く、厳しく人から教わるという経験はなかった。初めて指導者に教わるという経験をし、いい意味で指導者の色に染まっていった。高校では、チームにリベロがいなかったため、1年時、リベロにポジションを変更した。サーブレシーブをほぼやったことがなかったが、感覚でこなすことができていた。2年時には副キャプテン、3年時にはキャプテンに就任し、3年時後半では再びセッターに戻った。高校まではポジションが変わることも多かったが、あまり抵抗なくこなすことができた。実力のあった浅野が常に自分がチームの中心だった状況は早大に入って大きく変わった。

早慶戦ではリベロとして出場

 ーー「日本一をとりたい」。高校時代に早大の存在を知って、「日本一のチームでレギュラーメンバーとして試合に出場する」そう思って、あえて自分が追いかける立場になるであろう早大に入学した。予期した通り、早大での4年間は常に苦しかった。最も苦しかった時期は4年時。最高学年となった当初は、「主将」に就任した。昨年の代は同年代の中でもトップレベルのリベロである荒尾怜音(令6スポ卒=現ヴォレアス北海道)、布台駿(令6社卒)が上にいた。彼らからたくさんのことを吸収し、自分の代ではチームを「正リベロ」として支えたかった。そして、早稲田にトップレベルの選手が集まり、みんながついて来てくれる、そんなキャプテン像を模索していた。完璧であり続けたいと努力する浅野だからこそ、プレッシャーを感じ過ぎていた。心理テストをすると、「リラックス」のところだけ凹んでしまうほど常にバレーのことを考えていたと語る。それだけ責任感を持ち、張り詰めてやっていた。一時は部から離れる時期もあったが、秋からは「副将」としてチームを支えてきた。辛い時も頑張れたのは家族の存在があったから。中学2年時に亡くなった父親を思っていつもプレーしていた。家族は自分のプレーしているところを見て喜んでくれる、それが浅野にとっての原動力だった。

激闘を制した全日本インカレ日本大学戦に勝利した瞬間

 浅野のチームの中での役割は?と尋ねると、「クッションのような感じ」と答える。浅野含め、この代はみんな聞き上手で、話しやすい。クッションのように、そしてお母さんのように、みんなのことを受け止めることが多かった。秋から主将を交代した後輩の前田凌吾(スポ新4=大阪・清風)も浅野を頼りにしていた。新体制が始まった当初はバレーをしている時もあまり話すことは少なく、考え方も合っていなかった。浅野がチームに戻って来てからは、三役の苦しみを理解した前田から悩みを打ち明けてくれるようになった。そこからは毎日のようにご飯に行き、次第に思っていることがわかるようになった。早大では特に「人とのつながり」を学ぶことができた。高校以前よりも、性格が柔らかくなった。後輩から信頼され、人間として成長できた大学生活だった。

真っ先にメンバーに声をかけに行っていた浅野

 大学を卒業した後もバレーを続けるつもりだという浅野。「バレーだけではなく、いろんな場面で人から頼られるプレイヤーになりたい。そしていずれは海外にも行きたい」、そう語っていた。指導者にも興味がある。彼の夢はバレーボールに関わる夢だけではない。地元の宮城に帰り、みんなが来たい、そう思える場所を作りたい。優しさ溢れる浅野だから語れる将来像だった。

(記事 井口瞳、写真 五十嵐香音、井口瞳、町田知穂)