道標 その先へ
主務とゴールキーパー。二つの立場からチームを支えた北村公平(文構4=神奈川・桐光学園)。小学生からのサッカー人生と、多くの時間を注いだ国立決戦・「早慶クラシコ」を振り返ってもらった。
サッカーとの出会いは、小学3年生にまでさかのぼる。小学2年の終わりに腎臓病で入院を経験した北村。母の「免疫力を高めてほしい」という願いもあり、サッカーを始めることとなった。始めた頃からGKをするようになり、小学校高学年でGKに定着。小5で市選抜、小6で県選抜と、着実にステップを上がっていった。選抜の練習場が横浜F・マリノスの施設だったこともあり、中学では横浜FMジュニアユース追浜へ進む。
順調にステップアップしてきた北村だが、中学時代にキャリアの中で最初の挫折を味わう。試合出場はほとんど叶わず、細かい技術の面で周囲とのレベルの差を痛感した。それでもこの期間があったことで「自分の武器を見つけよう」と決意し、客観的な視点を持つことを学んだ。この経験は、後の彼のサッカー人生を形作り、北村公平という一人の人間の在り方をも大きく支えるものとなった。
高校進学にあたっては、「サッカーが強く、上位の大学を狙える環境」を求め、桐光学園を選択。高校では怪我人や代表活動など複数の要因が重なり、1年の6月からスタメンに抜擢され、インターハイ本戦出場という結果を残す。2年次にインターハイで全国優勝を達成。自身も優秀選手に選出され、守護神としてチームを支えた。「自分のサッカー選手としての全盛期はここだった」と当時を振り返る。3年生になるにあたり桐光学園の鈴木勝大監督からキャプテン就任を打診される。近年の主将の顔ぶれを見ると小川航基、西川潤といった後にプロの世界で活躍する選手が多くいる中で、「自分でいいのか」という迷いを抱く。しかし、自分はプレーで圧倒するタイプではないからこそ、誰よりも声をかけチームの心を繋ごうと考えてキャプテンに就任する。この年は新型コロナウイルス感染症により活動が大きく制限され、力を入れたいと考えていたコミュニケーションもオンラインツールを介するしかないという日々が続いた。サッカーになかなか取り組めない期間が続き、大会の中止も相次いだことでサッカーに対しての情熱を失う同期もいた。その中で北村にとってこの期間はサッカー漬けの日々から一歩引き、改めて自分を見つめ直す時間になった。小学生の頃からノンストップで続けてきたサッカー、この中断期間をきっかけにもう一度前へ進む準備を整えることができたと当時を振り返った。入学時から大学進学を見据えていた北村が進路として選択したのは早稲田大学だった。日々の積み重ねによって学業の面でもスポーツの面でも入学に必要な条件を満たした上で進路選択に臨み、「プロになる」ために早大を選んだ。
2024年リーグ戦 第3節慶大戦
そして早大入学。様々な要因が重なり1年生からトップチームのメンバーに登録されたものの、試合への出場は叶わず。試合に出られないということに対して中学時代に似た悔しさはあったと話したが、2年生になると試合に出られない日々が続くうちに、いつの間にかその現実を受け入れてしまっていた。同期であるヒル袈依廉(現サンフレッチェ広島)や他大学で一線級の活躍を見せるキーパーの姿を見て、大学サッカーやその先に待つプロの世界の基準の高さを思い知らされた。「自分はここまで及ばないか」と圧倒的な実力の差を痛感する。2年生の終わり、「プロは厳しい」。その現実を突きつけられた北村は、もがきながらも新たな道を模索し、「ア式の主務」になるという大きな決断を下した。「見たことのない景色を切り拓きたい」という思いと、同期の背中を押す声が彼を新たな道へと導いた。
3年次に副務としてチーム幹部となった北村にとって、関東リーグ2部に降格したチームの立て直しが急務だった。しかし、チーム状態は厳しく、日に日に多くのものが失われていく感覚があった。果たして自分はこのチームを愛せるのか。そう自問する日々が続いたが、先輩たちがチームのために全力を尽くす姿を見て、自分自身も覚悟を決めた。選手としてのシーズン中の出場はわずか180分、悔しさやもどかしさはもちろんあったが1年間我慢し続けた。Aチームの三番手というメンタル的に厳しいポジションを担い続けたことで、精神的な成長を実感し自分に自信が持てるようになったと話す。1つ上の学年が引退して新体制となった初戦、天皇杯予備予選の明学大戦にてついにトップチーム初の先発出場の機会が訪れた。日々の積み重ねでここまで来れたという感慨深さを感じる瞬間だった。
天皇杯予備予選・法大戦でPKストップを見せた北村
「日本一の主務になる」という強い決意を胸に迎えた4年生のシーズン。ゴールキーパー陣のけがや不調が続き、リーグ戦第3節慶應戦ではスタメンの機会が回ってくる。「この序盤で自分にとってもチームにとっても大きなターニングポイントが来るか、やってやる」と意気込んでいた北村。しかし、前のめりになりすぎた試合では思うようなプレーができず宿敵相手に大敗を喫する。選手としては立ち直ることは難しい試合となった。プレーで示すことができなかったことが悔しかったと当時を振り返る。それでもこの試合をきっかけに北村は主務として「チームが勝つために何ができるか」を考え、個人よりもチームの勝利を優先する姿勢へと変化していった。チームとしては苦しい期間が続く。主将の怪我離脱、死闘続きのアミノバイタル®︎カップ、勝ち切れない期間が続き夏へと突入する。
4年の夏、彼にとって最も大きな挑戦のひとつとなる「早慶クラシコ」が国立競技場で開催された。資金面や集客面で多くの壁が立ちはだかり、準備には2年を超える歳月を要した。「早慶クラシコという憧れの大舞台でピッチに立ち、宿敵に勝利して、紺碧の空を歌いたいという思い」が北村を突き動かした。「新たな自分へと導いてくれる景色と音が、あの舞台にはきっとある。そう信じて、突き進んだ」と当時を振り返る。
当日ピッチに立つことは叶わなかった。選手入場をベンチから眺めた時、「そこに立つ自分でありたかった」という思いも芽生えたと話す。それでも、スタンドに目を向けるとそこには臙脂と黄色に染まる「熱狂」があった。北村が多くの時間と熱量を注ぎ込んだ大舞台は輝いていた。試合は4ー0の完勝、リーグ戦で大敗を喫した宿敵相手にリベンジ成功という形で終わった。勝利後に歌った「紺碧の空」は今までで一番だったと振り返る。北村が追い求めていた「景色」と「音」がそこにあったのだ。卒業を控えた今、改めて早慶クラシコはどのような舞台だったかを尋ねると「憧れ続けた舞台であり、これからも多くの人の憧れであってほしい。熱狂があの舞台にはあり続けてほしい」と答えてくれた。
早慶クラシコ勝利後の「紺碧の空」
早慶クラシコ後、日本一を目指して臨んだ総理大臣杯を惜しくもベスト8で終えたア式は目標である一部昇格を目指して勝負の秋に突入した。再開初戦の城西大戦に敗れたものの、その後8戦負けなしでシーズンを終えるも、序盤の出遅れが響き昇格圏には勝ち点差2届かず。目標を達成することはできなかった。最後のホイッスルが鳴った瞬間、「もうこの仲間と戦うことはないんだ」という寂しさを抱えた。自らについては「日本一の主務には遠く及ばなかった」と語るが、「これから何かで誇れる人間になりたい」と、新たな目標を胸に刻んだ。
サッカー選手としてのキャリアに区切りをつけた北村。大学生としての4年間を「人よりたくさん苦しさを経験することができた」と振り返る。これからの人生は、また新たな壁との戦いになるだろう。しかし、彼は大学時代の苦しさを乗り越えた経験を糧に、前向きに生きていく。「今の自分は過去の自分の積み重ね、未来を変えられるのは今の自分の積み重ね」。ア式での4年間で学んだこの考え方を胸に、北村公平は誰かの道標になるべく新たな道を歩み始める。
(記事 和田昇也)