氷上に刻まれた16年間の軌跡
「アイスホッケーが楽しくなかった瞬間は一度もない」。そう話したのは、2024年度スケート部ホッケー部門の主将を務めた棚橋駿太(スポ4=愛知・東海)だ。推薦入試ではなく、一般入試を経て早大に入学した棚橋は、その実力や姿勢を認められ、3年生では副将を、そして4年生では主将を務め上げた。苦しいことも辛いことも全て、「アイスホッケーが楽しかったから乗り越えられた」と語る棚橋の、早大での4年間、そしてアイスホッケーに出会ってからの16年間を振り返る。
棚橋がアイスホッケーと出会ったのは、幼稚園の年長の頃。父親に連れられて観戦した社会人アイスホッケーの試合に魅了され、「やってみたい」と家族に伝えた。すると、翌日には早速近所のスケートリンクへ。地元・愛知県はフィギュアスケートの浅田真央氏や村上佳菜子氏を輩出した「スケート王国」だが、主流はフィギュアスケートで、周囲の友達にもアイスホッケーをする人はあまり多くはなかった。近くのスケートリンクで徐々にスケートの技術を磨き、小学校1年生で本格的にチームへ加入。以来、高校卒業までの12年間を中日アイスホッケークラブ(中日クラブ)で過ごした。

棚橋のように、中学や高校で部活動としてではなく、クラブチームで競技を続ける選手は多くはない。実際、早大に入部した棚橋の同期の多くは、高校で部活動としてアイスホッケーを経験していた。棚橋自身も、高校進学時には迷いがあったという。しかし、中学受験を経て入学した中高一貫校で勉学にも力を入れたかったこと、そして中日クラブでの充実感を考え、アイスホッケーの強豪校への進学は選ばず、クラブチームで競技を続ける道を選んだ。
早大進学のきっかけは、高校2年生の夏の全国大会で早大OBと話したこと。ただ、それまでスポーツ推薦の条件を満たすような成績を残せていなかった棚橋は、一般受験での進学を決意する。「早大のチームはレベルが高いことは分かっていたので、自分には無理だろうと思っていました。でも、OBの方や監督に声をかけていただいたことが本当に嬉しかったですし、もしかしたら自分も通用するのかもしれないと感じて、スケート部に入るために早大を選びました」。当時の早大監督からも「頑張って勉強で来い」と言われた棚橋。受験勉強に関しては、新型コロナウイルスの影響で高校3年生の時の大会が中止となったこともあり、その年の前半は勉強に専念できたとしつつも、「なんだかんだ言ってホッケーも続けていましたね」と振り返る。受験直前の1月末の国民体育大会(国体)にも出場し、アイスホッケーと受験勉強を両立。中高一貫校で勉学に励みながらクラブチームで競技を続けてきた経験が、結果的に早大進学を後押しした。

入部当初は「高校から強豪校に進んで早大に入る人が多いイメージだったので、みんな意識が高くて、実力のある選手ばかりで馴染めるか不安でした」と明かした棚橋。さらに、同期の中でも最も遅い入部だったことについても、こう振り返った。
「入部前にマネジャーの方を含めた新1年生のグループができるのですが、自分は2月中旬過ぎに合格が決まり、一番遅くグループに加わりました。そこで初めて同期のメンバー7人を知って。もちろん彼らは同年代でも実力のある選手として知られた選手ばかりだったので、僕は一方的に知っているのに、彼らからすると突然現れたやつ、みたいな感じだったと思います(笑)」。
同期にとってもノーマークだったであろうと話した棚橋だが、初めての寮生活や部活動にも順応し、1年生の春の大会からベンチ入りする機会も多かった。しかし、当時はディフェンスの選手が少なく、チーム事情から試される形での出場が続いていたという。その中で、周囲の評価が変わるきっかけとなったというのが春の中大戦。試合終了間際のパワープレーの場面で出場機会を得ると、自らのアシストでチームの得点を演出し、勢いをもたらした。「あのワンプレーが、先輩やコーチの印象を変えたと自分でも感じています」と、ターニングポイントとなった試合を振り返った。
3年生になると、チームの副将を務めることになる。3年生で役職を持つのは珍しいケースだったが、その理由については「試合になると、チームのために熱くなれる部分があったからだと思います」と分析した。1年生の時から意識していたというベンチでの声出しや、体を張ったプレーがチームの支えとなり、頼れる存在として評価された結果だった。そして、4年生で主将に推薦された時には、自分の言動やプレーがチームに大きな影響を及ぼすことを理解し、「絶対にチームメートに恥じることがないように」と強い決意をもって1年をスタートさせた。

棚橋が過ごした4年間で、早大はチーム事情も大きく変化していた。棚橋が1年生だった当時は部員数が多く、同期の中でもベンチ入りできない選手がいるほどの競争の激しい環境だった。しかし、学年が上がるにつれて部員数が減少し、自然とベンチ入りのチャンスも増加。3年生になる頃には、チームの雰囲気も以前より和やかになったと振り返る。しかしこの変化には良い面もあったが、チームの統率という点では難しさもあった。主将となった棚橋は「厳しく指導することは得意ではない」と自覚しながらも、練習の雰囲気が緩みすぎないように全体へ意識を引き締めるための声かけを行い、試合中には態度に課題を感じる選手に直接声をかけるなど、チームを引き締める役割を果たした。
一方、プレー面では、少人数だからこその強みがある。他大学では部員数が多く、その分セットの組み合わせも流動的になりやすいが、早大は少数精鋭。限られたメンバーで固定されたセットを組むことで、氷上での連携が深まり、プレーの精度を高めることができた。さらに棚橋は、氷上の外でも積極的にコミュニケーションを取ることで、チームの結束を強めることを意識した。
様々な試行錯誤の上、仲間とともに戦い抜いた4年目のシーズン。しかし、結果は決して満足のいくものではなかった。秋季リーグでは2部リーグ降格の危機に直面し、日本学生氷上競技選手権(インカレ)ではターゲットとしていた関大戦に敗れベスト8。最後の早慶戦でも、半世紀ぶりの悔しい敗戦を喫した。例年と比べても苦しいシーズンとなり、人一倍悔しさを味わった1年。「この悔しさは4年生になって初めて実感するものだと思うので、下級生に理解してほしいとは思わない。でも後悔のない4年目を迎えるためには、日々の練習や試合の積み重ねが大切なので、今シーズンの悔しさを次に生かしてほしい」と後輩に向けてのメッセージを紡いだ。
引退後、「俊太がキャプテンで良かった」と同期のメンバーから声をかけられた他にも、棚橋が主将としての手応えを感じる場面があった。それはインカレ前、1年生の伊藤慶(文1=早稲田佐賀)から「もうすぐ俊太さんがいなくなっちゃうんですか。寂しいですね」と声をかけられたこと。「自分が1年生だった頃は、4年生にそうやってに話しかけることはなかった」と振り返り、部員数が少ない中、1年生も実力を存分に発揮できる環境を整えるために後輩とのコミュニケーションや親しみやすさを重視していた棚橋にとっては、そのチーム作りが実を結んだと感じられる出来事だった。

16年間続けてきたアイスホッケーという競技はもはや「生活の一部」と話す棚橋。さらに驚くことに、「1回も辞めようと思った瞬間はないです。むしろ一番楽しい時間でした」と自らの競技人生を振り返る。今後も、社会人枠で国体に出場し続けたいという思いはあるが、社会人チームには所属せず、一般企業に就職する。
「早大入部時は実力でも何でも一番下にいたかもしれない。でもそこから徐々に色々なことを身につけ、4年生では主将を任されるまでになりました」。
4年間、色々な立場や視線で物事を見てきた棚橋ならば、どんな環境に身を置いたとしても、そこで前を向き、新たな道を進み続けるに違いない。16年間の全てを刻んできたリンクを離れ、新しいステージに上がる棚橋の今後の躍進に期待したい。
(記事・写真 濵嶋彩加)