【連載】『令和6年度卒業記念特集』第37回 大村晃央/相撲

卒業記念特集記事2025

「あの事件があったから自分が変われた」本気で相撲と向き合った”ラストイヤー”

 早大相撲部員として、この春唯一卒業する大村晃央(社4=静岡・飛龍)。最終学年となった今年度は、自己最高の結果を次々と叩き出した。
 その背景には、”ある”事件が関係しているという。
「2人で入部してきて、卒業を迎えて、横見たら誰ひとりいないみたいな。やっぱり悲しいし、寂しいし。あれ何でだろうっていうのはありますよね」
 新型コロナウイルス感染拡大、度重なるケガ…。いくつもの困難を乗り越えた先には、一体何が見えたのだろうか。

 2002年4月24日、静岡県の浜松市に生まれた大村。県相撲連盟の会長を務めていた祖父の影響で、3歳から相撲を始めた。
「気づいたらまわしを巻かれていましたね」
 祖父の会社が運営する「天方相撲クラブ」に所属し、泣きながら相撲を取った遠い記憶があるという。
 相撲を「やらされている」から、自主的に「やる」感覚へ変わったのは小学5年生のころ。全国大会を目指して県大会に出場したものの、あと1勝のところで夢が断たれた。
「そのとき全国大会出場が決まったヤツから、『残念だったね(笑)』と煽られて。マジで見返してやるぞと思いました」
 火がついた大村は、今までになく本気で相撲に挑んだ。「ここ死ぬ気でやって、ダメだったらもういいやと」。めきめきと力をつけ、翌年には県大会優勝を複数回達成。「そこからは相撲の楽しさに取りつかれたというか。自分からのめり込んでいきましたね」

 中学卒業後、大村は数多くの大相撲力士を輩出してきた飛龍高校へ進学した。同期には、現在プロとして活躍する熱海富士(本名・武井朔太郎)がいた。ただ、ここは相撲の「名門校」。上級生には強者がそろっており、1・2年生の間はなかなか大会に出られなかったという。「3年生になってようやく、『僕らの時代が来たぞ、ことしこそはやってやるんだ』って同期と話していましたね」
 だが、またも大村は壁に阻まれる。新型コロナウイルスの感染拡大。接触が当たり前のスポーツだからこそ、高校3年時すべての大会が中止となった。

「活動実績もないので、早稲田のスポーツ推薦は見事に落ちましたね」
 高校1年生のころから早大進学を意識してきた。「僕が中学生のとき、父親が振動センサーを研究する会社を作り上げたんですよ。それもあって、神経とか体の仕組みに関する本が家の中にたくさん置かれていて」。本を手に取ると、不覚にもその世界に引き込まれていった大村。体の動かし方、つまりスポーツについて研究したい。加えて、大学でも相撲をしたい。そうこうしているうちに、早大が志望校に決まった。

 結果、早稲田の社会科学部に自己推薦で合格。晴れて早大生となり、相撲部への入部も決まった。
 とはいえ、世間はまだ自粛ムード。自らのケガも度重なり、大会に出ても結果がついてこない。大学3年時のインカレ(全国学生選手権)でも、個人戦は2回戦敗退、団体戦のメンバーにも選ばれず。相撲への熱も下がり、「時を追うごとに楽しくなくなった」という。このまま来年で卒業を迎える、はずだった。

「僕は報道が出る数時間前に知ったんですよ。あれは忘れもしない」
 2023年11月14日。インカレ後、1週間のオフが明け、いよいよ新体制に。最高学年としての意識が高まる中、突然栗田裕有主将(当時、令6スポ卒=新潟・海洋)からメッセージが届いた。
 LINEを確認すると、部唯一の同期が大麻取締法違反の疑いで逮捕されたことが書かれていた。

「そのとき僕は、相撲への熱量が低くなっていた時期でした。ただ、後輩はみんな相撲が好きで、相撲をやりたい子ばかりなんですよ」
 可愛い後輩が相撲を取りたい、けどできない。でも、どうしようもない。なすすべはないけれども、「どうにかしてあげたい」という葛藤があった。

 その上で、最上級生がひとりだけになった不安に襲われた。
「4年生が自分だけ、たった一人になるじゃないですか。だから僕が不安な顔をすると、全部後輩たちに伝わっちゃうから、それができなかった。でも彼がいたら、たぶんそういうところも支え合いながら相撲部という組織を運営できた。彼がいなくなったのは大きい出来事だったな、と改めて感じます」
 彼のLINEは消え、今どこで何をしているか分からないという。

 事件発覚から、翌年の3月まで。相撲部は活動停止処分を受け、練習場への立ち入りも制限された。大村は「何もできなかったですね」と当時を振り返る。

 活動再開後、大村はあることに気付く。「大会に出られるのかも分からないし、大会に出たとしても勝てるか分からない。みんなの士気が下がっているな、と肌で感じたんですよね」
 高校在学中に、大学で相撲から引退することを決めていた。コロナで大会が中止となり、大相撲で活躍する自信を持てなかった。それゆえ、彼にとっては相撲の「ラストイヤー」となる一年。
「相撲への熱量は下がっていたけれども、このままショボい終わり方をしてもいいのかなって」。自分の存在価値は何なのか、改めて自分自身に問い聞かせた。
「僕が一番稽古して、一番声出して、部を盛り上げるしかない。僕自身もこの1年は本気で相撲をやってみようと思ったんです」

「4年生になるまでも盛り上げていたのでは」と問うと、「工夫して盛り上げてはいなかったです。周りを巻き込んでやっていく、みたいなことはなかった」と口にした。後輩の1年生・横山司(スポ=東京・足立新田)は、早大相撲部について「大村さんを中心に自分たちも戦っているチーム」と表現し、2年・剣持京吾(スポ=神奈川・県立光陵)は「普段の稽古は大村さんが引っ張っている」と語る。彼の人柄がそうさせているのかもしれないが、4年時の大村は、今まで以上に背中が大きく見えただろう。

 ついに最高学年となった大村は、自身最高の結果を次々と叩き出す。7月に行われた東日本学生個人体重別選手権(東京・靖国神社相撲場で開催)では、115㌔未満級でベスト8。体重別の全国大会初出場を決めると、ベスト8で入賞した。団体戦では、相撲部が出場した全大会にレギュラーとして出場。橋本侑京監督(平31スポ卒=東京・足立新田)からは「チームの起爆剤」として起用されるなど、首脳陣からの信頼も勝ち取った。

 迎えた最後のインカレ。「今までにないくらい一番集中していた」と、個人戦はベスト32で優秀選手賞を獲得した。しかし翌日の団体戦では、中堅として3番手に出場するもなかなか白星をつかめない。
 予選最後の試合、駒大との戦い。自分が勝てばチームの勝利に近づくからこそ、よりいっそう気合が入った。
 立ち合い。大きく左に変化した大村は即座に相手の腕を返すと、両手でまわしをつかみにいった。右の上手を強引に振り払われるも、左手だけは絶対に離さない。互いに頭をつけ合う混戦となり、じりじりと土俵際に追い込まれた。大村は決死の居反りを狙うも、自身の体が先に崩れ黒星を喫した。
 結果的に、これが相撲人生最後の取組となった大村。
「あの居反りが決まっていたら、最高な相撲人生でしたけどね。でもあれが決まっていたら、たぶん相撲を辞めていないので」
 冗談めかして笑うも、にじみ出る悔しさは隠し切れていない。

 引退後、卒業を控えた大村は、就職先である金融スタートアップ企業・fundnote社ですでにインターン生として働いている。ことし2月には寮生活と別れを告げ、一人暮らしをはじめたという。
「振り返ってみると、あの事件があったから自分が変われたというか。もう一度相撲に向き合うことができた」
 競技人生の評価基準は、結局結果が全て。相撲ができることは当たり前でないからこそ、その恩返しの仕方は勝つしかない。ただ、その過程は「変数だから自分で変えられる」と強く語る。

 どんなトラブルに巻き込まれても、その逆境を跳ね除けてきた大村。思い返せば、相撲を主体的に始めたきっかけも、新型コロナウイルスの感染拡大も、全部向かい風だった。それでも、大村が抜群の行動力を発揮することで、彼の周りも鼓舞されていく。何度も壁を乗り越えてきたからこそ、精神的にも、物理的にもたくましい姿がそこにあった。

(記事、写真 中村環為)