ともに頂点を見つめて
「一緒に早稲田に行けたら日本一を狙える」。ともに日本一を目指して、早大への進学を決めた矢野颯人(社4=奈良・高田商)・端山羅行(社4=石川・能登)組。矢野は早大で過ごした4年間を、「ストーリーのある、とても濃い4年間」だったと表す。互いを「兄弟」と表現する二人が歩んだ4年間の物語とはーー。矢野・端山組の『奪冠』への足跡をたどる。

天皇賜杯全日本選手権でプレーする矢野
和歌山で生まれ育った矢野とソフトテニスの出会いは幼稚園生の頃。ソフトテニスをやっていた両親についていき、ボールを打つようになったのがきっかけだった。小学校1年生からジュニアクラブで本格的に競技を始め、一から練習を積むと、やがて全国を舞台に活躍するプレーヤーに。小学校6年生時の全日本小学生選手権では優勝を飾り、その名を全国に轟(とどろ)かせた。中学校・高校に進学しても戦うステージは常に全国の上位。各世代にわたり、輝かしい成績を残してきた。

天皇賜杯全日本選手権でプレーする端山
一方端山は、兄姉の影響で小学4年生の時にソフトテニスの世界に。今でこそ、日本のトップで活躍するほど、ソフトテニスで花を咲かせた端山だが、幼少期は陸上をしていたという。陸上かソフトテニスか、どちらかの競技1本に絞るにあたって、端山はソフトテニスを選んだのだった。端山の運動神経の良さはソフトテニスでも存分に表れた。中学2年生時の全国中学校大会では3位に。翌年にはUー14の日本代表に選出され、トップ選手への道を駆け上がり始めた。
そんな二人が初めて会話を交わしたのはUー14の日本代表合宿。その際、ペアを組んだこともあったといい、「矢野・端山組」は当時も存在していたようだ。高校は、矢野は奈良の高田商業高校、端山は能登高校へ進学。別々の場所で研鑽(けんさん)を積んだが、新型コロナウイルスの影響で高3の諸大会が中止となると、いつの間にか進路を考える時期に。ともに進学を希望したのは明治大学だったが、限られた枠に入ることができず。関東で競技継続を望んでいた矢野は「早稲田に挑戦してみよう」と早大の受験を決意。そこで、「同級生の組めるペアが欲しい」と矢野が声をかけたのが、端山だった。「どうしようかと思っている時に、颯人から一緒に早稲田に行こうという話があった。一緒に行けたら日本一を狙えると思った」。端山は早大への挑戦を決め、二人は社会科学部に見事合格。早大という新天地で「矢野・端山組」の新たな章が始まった。
二人は入学直後からチームの柱へ。関東選手権ではルーキーながら準優勝。春リーグでは4勝1敗と優勝に貢献し、秋リーグの代替大会となった関東学生研修大会でも全勝を挙げ、チームを優勝に導いた。1年時からルーキーらしからぬ結果を出し続けていたが、大きな大会ではかなり緊張をしていたという。

全日本学生大学対抗選手権(インカレ)に出場する二人
2年時には初めてのインカレに出場。矢野は「結構緊張していた」というが、「優勝してやろう」と強い気持ちで臨んだ。団体戦では、決勝まで勝ち上がり、日体大と日本一を懸け対戦。3本目の対戦となった矢野・端山組は、大将の下國・髙城組にも引けを取らず、互いに全力を出した結果、勝負はファイナルゲームのデュースに。しかし、マッチポイントを取った際、端山のミスからそのまま逆転を許し、3ー4(F9ー11)で敗北。自分のミスが日本一を逃した一因である現実に打ちのめされ、4年間で「一番しんどかった」と端山は言う。「モチベーションがあまりなくなった。練習を頑張ろうと切り替えるまでが辛かった」。しかし、端山にとって1本の重みを教えてくれた夏でもあった。矢野もシングルスで同級生の米川結翔(明大)に決勝で敗れ、「一番大事なところで自分の最高の力を発揮することの難しさ」を学んだ。
3年時には、矢野は荒木駿(令6社卒=現YONEX)と、端山は吉田樹(法4=東京・早実)とそれぞれペアを組んだ。7月の東日本インカレでは団体決勝で吉田・端山組が二次戦で勝利し、優勝。ダブルスでは矢野・荒木組、シングルスでは端山が優勝し、全種目を早大で染めた。2度目のインカレ開催地は端山の故郷である石川。1年前の屈辱を晴らしたいところであったが、団体では明大に敗れ、決勝に上がることさえできず、3位に。シングルスは矢野が3位、ダブルスではともにベスト8と、実力を考えると、物足りなさを感じる結果であった。「ずっと調子が上がらず、 あまり自信のある状態で試合に出れていなかった。勝てるような相手にも負けて、 焦っていた。怖がりながらプレーをしていた」と、矢野は当時を振り返る。しかし、その苦しみは闘志に。「僕が引っ張って、このチームで日本一になりたい」と、キャプテンを志願。「インカレで優勝するために」、『奪冠』というスローガンを立て、ただ頂点を見つめて再び走り出した。

東日本学生選手権での二人
迎えた最後のシーズン。関東学生では、シングルスで矢野が優勝、ダブルスで矢野・端山組が優勝、関東一般ダブルスでも矢野・端山組が優勝を飾った。その勢いは東日本に規模が広がっても衰えず。学生シングルスは矢野が制覇し、ダブルスは学生大会も一般も矢野・端山組が優勝。あらゆるタイトルを総なめし、まさに無双状態だった。だが、個人で勝てても、団体で勝てない。春リーグは4勝するも、チームは4位。東日本大学対抗でも、準々決勝で3本回しを決めるも、準決勝で日体大のBチームに負け、3位に沈んだ。それでも、「日本一になりたい」という思いのもと、体力づくり、サーブレシーブをはじめとした基礎練習に全員で全力で取り組み、「圧倒的なチーム力」を磨き続けた。
「ここまで組んでくれてありがとう」。インカレ直前、二人にはそんな会話があった。「最高の同期と初めての日本一を勝ち取りたい」。「自分たちの力を発揮して、絶対に優勝して帰ろう」。互いに『三冠』を目指し、3度目の、最後のインカレが開幕を迎えた。しかし、二人を待ち受けていたのはインカレの洗礼。最初に行われたダブルスから、準決勝で橋場・菊山組(法大)相手に、2ー5でまさかの敗戦を喫した。「最悪の気分だった。負けたことと、力を発揮できなかったことが悔しくて、ショックが大きかった」。矢野はダブルス後の心境をそう振り返る。「団体戦が一番だから切り替えよう」、「シングルスを2人で決勝やろう」と互いに言い聞かせた。

インカレダブルス準決勝で敗退した直後の二人
同日に行われたシングルス。「初戦はダブルスの決勝戦が気になって集中できなかった。(ベスト)8決めでは、試合自体をあまり楽しんでできなかった」。その言葉が表すように、端山は普段通りの冷静なプレーのように見える一方で、心は冷静さを欠き、3回戦でルーキーにファイナルで敗北。平静を失ったのは矢野も同じだった。3回戦まで「ダブルスの試合をずっと引きずっていた」そうだ。ポイントを取ってもテンションの上がらない自分とは正反対に、強気に打ち込んでくる大和昌生 (国学院大) 、盛り上がる相手の応援に「負けるのではないか」と思ったという。だが、何度も練習し磨きをかけてきたサーブレシーブは嘘をつかず、矢野を救ってくれた。決勝では、橋場柊一郎 (法大)に1ゲームしか渡さず、3度目の正直で正真正銘のインカレチャンピオンに輝いた。「自分でも鳥肌が立った。みんなも喜んでくれてるのを見てうるっときた」。矢野にも、端山にも、笑顔が戻った瞬間だった。

シングルスで優勝した矢野を囲む4年生
そして、団体戦。準々決勝では関学大の岩﨑・近藤組、準決勝では中大の濵田・髙田組とのファイナルゲームをどちらもデュースで制し、大将として躍動。「俺に任せろ」「俺についてこい」と頼もしく決勝のコートに入った2人はダブルスで負けた橋場・菊山組をストレートで打ち負かした。そのまま、浅見竣一郎(スポ1=宮城・東北)・安達宣(スポ1=奈良・高田商)組が優勝を決め、チームは悲願の日本一に。涙腺を緩ませていた二人はともに「最高の景色」だったと喜びを分かち合った。

団体戦後の二人
「インカレで優勝したいという想いで早稲田に入って、優勝までの道のりは長かったが、このために4年間負けても頑張ってきた」。端山は4年間を振り返り、「最後の最後で日本一を経験できたので最高の4年間だった」と話す。矢野も、「ペアもいろいろな人と組んだし、勝ったときも負けたときもあった。3年の最初の方はなかなか勝てずに苦しんだが、とてもいい同期に恵まれて楽しくテニスすることができたのでよかった」と、充実した4年間をうかがわせた。
気分屋でわがまま、だけど一生懸命な前衛。ペアがミスしても怒らないが、自分に厳しい、粘り強さを兼ね備えた後衛。間違いなく記録にも記憶にも残る、最強のペアになった。矢野と端山は良きライバルとして、良きバディとして、これからも互いを高め合い、別々のステージで輝き続けることだろう。早大の「矢野・端山組」から卒業しても、二人の関係性は変わることはないーー。
(記事 佐藤結、写真 佐藤結、石村莉理氏)