【連載】『令和6年度卒業記念特集』第34回 星野聖敬/応援

卒業記念特集記事2025

早稲田を一つに、人と人をつなぐ応援を

 令和6年度代表委員主将として常に応援部の先頭に立ってきた星野聖敬(政経=東京・早大学院)。過酷な下級生時代を乗り越えていく中で、明治神宮野球場の指揮台で校歌のテクを振ることに憧れ、代表委員主将に就任。「チーム早稲田」をスローガンに掲げ、早大全体が一つになるような応援活動を目指してきた。見事に一年間の活動を全うしてきたが、周りから見えないところで苦悩を抱えることもあったようだ。そんな星野の軌跡を振り返る。

デモンストレーションで校歌の指揮を行う星野

  高校時代はゴルフ部に所属していた星野。新型コロナウイルスの影響で大会がなくなるなど、3年間が不完全燃焼に終わってしまった。そこで、「応援部なら何かを得られるはず」と思い、高校3年時に早大応援部入部を決断した。入部後は想像通りの厳しい練習、上下関係が待っていた。そんな中でも、いざ試合の応援活動に参加すると、選手のために声を出して頑張っている上級生が格好よく、楽しそうに見えたという。コロナウイルスの影響で活動は少なかったが、応援部でしか経験できないことが多かったことからこそ充実感を感じていた新人時代だったと言う。
 部員昇格後も執行委員からの厳しい指導は続いた。けがをしたことも、精神的に辛くなったこともあったが、腐ることなくがむしゃらに努力を重ねた。その源となったのは、4年間辞めずに続けなければいけないという「使命感」だったと星野は言う。

明大2回戦で9回から全ての回の学生注目を行う星野

「部に何か形として残したい」。
3年生の前期、総務補佐として下級生を取りまとめていく中で星野はそのように考えるようになった。後期に応援企画補佐に就任すると、場内応援をより良くするために、3年部員ながら全体練習のメニューを発案するなど、応援部のために積極的に活動した。この3年の補佐の期間を、「成長の良い過程だった」と星野は振り返った。役職を務めていく中で、星野自身と周りからの評価にはズレを感じていたといい、「部のために、ちゃんと取り組まないといけない」と再認識するきっかけになったと言う。

早慶戦で校歌の指揮を行う星野

 星野は下級生時代から明治神宮野球場で早稲田大学校歌の指揮を行うことに自然と憧れた。実際に主将になった星野は当初、下級生とも多く会話する主将を目指していた。しかし次第に、下級生の目標となるには、指揮台の前でずっしりと座る、威厳のある主将を体現しなければならないのではないかと悩むようになる。苦悩の末、本来の自分を押し殺し続けた星野は、秋まで「主将らしい主将」の姿でいた。しかし、2連敗を喫した東京六大学野球秋季リーグ戦早慶戦の直後、就任以来自分に課していた主将像を捨てることを決めた。新人との対話の場を初めて設け、翌日には髪を刈り上げた。明大との優勝決定戦の日には、下級生のように拍手で場内を盛り上げる星野の姿があった。葛藤が消えた星野は、これまでとはまた違う輝きを放っていた。

豊島悠代表委員主将兼連盟常任委員(新教4=神奈川・桐蔭学園)とサイン出しをする星野

 応援部はこの一年間、「チーム早稲田」をスローガンに掲げ、体育各部とのつながりをさらに強いものとした。星野自身も体育会の選手とよくコミュニケーションを取っていた。山縣秀(商=東京・早大学院)のあだ名「がたしゅー」は星野と山縣の自然な会話の中で誕生し、応援席での呼び方が変更されたことが良い例だろう。「早稲田の勝利が何よりも嬉しかった」と語った星野。そんな星野はこの一年、代表委員主将としての在り方を追い求め続け、苦しい時でも、その悩みを下級生に見せることはなかった。下級生たちは、星野の背中を追い、人と人が繋がる応援はこれからも応援部に引き継がれていくことだろう。

(記事 土橋俊介、写真 土橋俊介、早崎静)

 

 

早慶戦で学生注目を行う星野

クィントを演奏する直前の星野

稲穂祭にて笑顔で写真に収まる野球部と星野

明治神宮野球大会で校歌指揮を行う星野

動きが揃った「コンバットマーチ」を披露するリーダーたち