早稲田で貫いた4年間
「強いチームを倒すために、早稲田にきた」全日本大学選手権大会(全日本インカレ)前、ちょっとカッコつけたかな、と笑いながら秋重若菜(スポ4=大阪・金蘭会)はそう言った。小学2年生でバレーボールを始めて15年。人生の大半を競技に捧げてきた秋重の、これまでとこれからに迫る。
友人の誘いがきっかけでバレーボールを始めた秋重は、ボールを落としたら負けという唯一無二のルールの面白さに引き込まれ、どんどんこの競技に夢中になった。中学校は地元、大阪の強豪・金蘭会中学校に進学し、バレーボール一色の生活を送る。当時のことを秋重は「バレー人生で一番きつかった」と振り返った。強豪校での厳しい練習の毎日は想像に易い。日々続く練習の大変さに、入部当初は何度も逃げたいと思ったと言う。中学卒業後も、金蘭会高校で様々なポジションを転々としながら経験を積んだ。一番印象に残っていることを伺うと、秋重は高校3年時の全日本バレーボール高等学校選手権大会(春高バレー)を挙げた。コロナ禍で大会が次々と中止になっていた中、3年として最初で最後の全国大会となった春高バレー。緊張で気負っていたこともあり、「不完全燃焼だった」と話した。ベスト8に終わった悔しさと、それでもやっと試合ができたという嬉しさが混じった不思議な感覚が秋重を取り巻いた。中高6年間のバレー漬けの毎日は、プレイヤーとして、そして人としての彼女の基礎をつくった。
レフトから豪快なスパイクを打つ秋重
「強いチームを倒すのがかっこいい」。そう思った秋重は、中学、高校の先輩・中澤恵氏(令5スポ卒)がプレーしていたこともあり、当時関東2部リーグで戦っていた早大バレーボール部に入部した。大学での練習は、今までと違い学生が主体。強豪校でプレーしてきた秋重は、「自分への厳しさが変わった」と話した。早大は、スポーツ推薦で入部した選手が多数派ではない。多様な経験をもったチームメイトと練習をする中で、技術を認められ入部した自分は「絶対にサボれない」と、ストイックさは増していった。
入部当初からプレー面ですでに主力として活躍していた秋重は、3年時から主将という大役も務めた。主将2年目となるラストイヤーだった今年は「もうしんどくなかった」と言う。上級生もいる中で主将を務めた経験は、余裕をもったプレーやチームへの適切な声掛けに生かされた。下級生も多くメンバー入りしていた今期のチームでは特に、ひとりひとりと「コミュニケーションを取ること」を大切にしたと語る。主将として、そして何よりもエースとして、絶対に1部に上がるという気持ちは誰よりも強かった。その思いはチームメイトにつながっていく。昨年秋に開催された秋季関東大学リーグ戦では、1部昇格はならなかったものの、2部3位と大躍進を遂げた。全日本インカレでは初戦で芦屋大に敗れ、これが秋重の大学バレー最終戦となったが、「全部やり切った」と話す彼女に涙はなかった。少人数ながら、学年関係なく全員が同じ思いで強くまとまって戦い続けた。これが、集大成として秋重がつくり上げた最高のチームだった。
得点を決め喜ぶ秋重とチームメイト
文字通り学生生活のほぼ全てをバレーボールに捧げてきた秋重。そんな彼女は早大バレーボール部を「これまでもこれからも、自分の人生で一番大切な場所」だと言う。先輩や4年間を共に過ごしてきた同期、後輩の存在は秋重に多くの良い影響を与え、日々真剣に練習に取り組む仲間の姿は、彼女がさらに成長する糧になった。卒業後も、秋重はバレーボール選手としてプレーを続けることを決意。一度は完全に競技を離れることも考えていたそうだが、最後は自分で「もう1回やったるか」と覚悟を決めた。理想の選手像を伺うと、「バレーボールの楽しさをプレーで体現していきたい」と語ってくれた秋重。その言葉から、プレー中もそして点数が決まった際も、弾ける笑顔でチームを鼓舞していた姿が思い出された。早大バレーボール部を明るく、力強くけん引し続けた彼女のその輝きは、新天地でもきっと衰えることはない。
(記事 佐藤玲、取材 芦刈れい、写真 帖佐梨帆)