【連載】『令和6年度卒業記念特集』第16回 松並大智/漕艇

卒業記念特集記事2025

ひたむきに目指し続けた「日本一」

 「日本一を取りたい」その思いを胸に大学4年間を漕艇にささげた松並大智(基理4=静岡・沼津東)。誰よりも真摯(しんし)に競技に向き合い続けたその実直な姿は部員からの信頼を集めた。2000㍍にかけた松並の思いと4年間を振り返る。


全日本選手権で男子フォア3位に入賞した(写真左から2番目)

 漕艇を始めたのは高校1年生の時。それは小学生から9年間続けていたサッカーをやめるということを意味し、松並にとって大きな決断だった。その決断は、2014年のソチオリンピックで活躍する選手を目にして抱いた憧れからだった。「新たに何かに挑戦したい。日本一を目指したい」そう考えていた時に出会ったのが漕艇だった。高校時代はコロナの影響もあり、高校3年時の大会が全てなくなった。「集大成だと思っていたのできつかった」と振り返る。この思いを成し遂げるべく、大学でも日本一を目指せる環境で競技を続けるために早大への進学を決めた。強豪校としての伝統だけでなく、他大学のボート部に比べて「自分たちで考えて行動する」姿に惹かれ、入部当時から強い思いをもって競技に取り組んでいた。


早慶レガッタで対校エイトで優勝(写真後ろから3番目)

 松並は同期やコーチからの推薦、そして自身の立候補で主将となった。日本一を目指せる環境作りのために、練習面、精神面での改革を行った。青木洋樹前主将(スポ4=東京・成立学園)の代では、男子の経験者数が少なかったためチーム全体でのレベルアップが急務だったため、練習量を増やした。松並は練習量の確保は継続させたことに加えて、一般的にこぎやすいとされる心拍数に上げる練習を取り入れ、2000㍍で勝つことに照準を合わせた細かいメニュー変更を行った。また、部員やコーチの間で一般的に良いとされるこぎを体現する「早稲田の漕(こ)ぎ」の確立を目指した。それまでは艇やクルーごとに良いこぎが変わっていたため、イメージを共有して体系化することを実現した。

 松並は自身の主将としての改革について「練習量は引き継いで、気持ちの面の改革を重点的に行った」と話す。精神面では、スローガン『俺がやる』をかかげ、寮の見えるところにスローガンを中心としたマンダラチャートを設置。部員一人一人が主体的に競技に取り組める環境と気持ちを整えた。部員に周知するだけでなく、松並自身が口だけにならないように真摯(しんし)に競技に取り組むことを意識した。「自分より体力や技術がある下級生がいることは悔しいが、そういう人にも言葉を聞いてもらえるように」。部員全員からの信頼を得ることを意識して行動した。


早慶レガッタ後の記念写真(前列右から2番目)

 主将として部を率い、周囲の期待に応える重圧を乗り越えた秘訣は「目標があったから」。高校1年時から日本一という高い目標を掲げて競技に取り組んできた軌跡が、自身を後には引けなくさせ最後までやりきることができた。辛いと思った時には、「日本一を取ろう。取るために始めたんだ」という意識を思い出して自信を励ましたという。また、先輩から教わった「人間万事塞翁(さいおう)が馬」という言葉を思い出して、良い時こそ気を引き締めて、悪い時は今後良くなると信じてめげずにポジティブに取り組んだ。

 松並は大学4年間を「ボート競技にかけた大学4年間だった」と振り返る。どんなときもボートを優先して考え、頭から離れることはなかったという。最終学年であった今年は全日本大学選手権(インカレ)で男子エイトのクルーとして準優勝したが、惜しくも9年ぶりのインカレ優勝とはならなかった。目標としていた日本一の夢は後輩に託し、卒業を機に競技からは引退する松並。「一緒に過ごしてきて信頼している」漕艇部の後輩に、早慶戦完全優勝と男子エイトのインカレ優勝を果たしてほしいと話す。次のステージでも高みを目指して、松並はひたむきに挑戦し続ける。

(記事、小島大典 写真、小島大典 近藤翔太 権藤彩乃)