バトンをつなぐ
「曖昧な目標でスタートした」。2年時には日本選手権リレーで優勝を果たし、3年時には400メートルで日本学生対校選手権(日本インカレ)王者に輝いた眞々田洸大(スポ4=千葉・成田)は、入学当時をそのように振り返った。明確な目標を口にせず、自信のなかった入学当初。そんな眞々田が、早大競走部でレベルの高い競技者たちに揉まれ、自身も高い目標を口にし、実現することのできる競技者へと成長した4年間の足跡を辿る。
先輩の活躍や高校の先生からの勧めで進学した早大。入学して最初に掲げた目標は、「関カレ(関東学生対校選手権)、日本インカレ、日本選手権で活躍したい」。また、「人間力としても、一流のトップアスリートだと思えるような人になりたい」であった。「活躍」とは言っても、具体的な数字を出すことはなかった。そこには入学当初の自信のなさが現れているという。早大競走部のレベルの高さを実感しながら競技に取り組んでいた下級生時代。眞々田の支えとなったのは常に高いレベルで戦い続ける先輩たちの姿だった。自分よりもたくさんの知識や経験を持っている先輩たちがずっとそばにいてくれたおかげで、切磋琢磨し合い、さらに鍛錬して、競技に対する考え方も変わった。また、入部してすぐ、一つレースを終えた後に監督から言われた「もっと陸上を考え直せ」という言葉。この言葉は、今でも眞々田の心に残っているそうだ。高校までの陸上とは違う、大学での陸上。スタートを切るにあたって投げかけられた言葉は少々衝撃的ではあったが、逆にいいかたちで4年間を始めることができた。
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2022年日本選手権リレーで優勝した当時2年生の眞々田(写真右)とマイルメンバー
2年時からは対校戦の代表争いにも食い込むようになる。4×400メートルリレー(マイル)では、見事関東インカレ、日本インカレのメンバーとして選出された。しかし、個人種目の400メートルでは熾烈(しれつ)な代表争いに敗れ、個人での出場はかなわず。挫折感を味わいそうな出来事だが、決してめげることはなかった。眞々田はこれを「良いきっかけになった」と振り返る。この年、マイルリレーでは関東インカレで7位、日本インカレでは準優勝という成績を残した。関東インカレから確実にステップアップしたものの、悔しさの残る日本インカレでの準優勝。その雪辱を果たすように、その後の日本選手権リレーでは見事優勝を勝ち取った。決勝では当時の自己ベストを上回る、46秒台のラップタイムを叩き出した。眞々田にとって、2年時の様々な出来事が転機となり、更なる飛躍へとつながった。
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2023年日本インカレでゴールする当時3年生の眞々田
勝ち切ることは、自信を持つきっかけに。3年生になるとさらに快進撃は続いた。順大競技会、トワイライト・ゲームスと立て続けに自己ベストを更新。記録は46秒台に突入した。そして迎えた、日本インカレ個人種目の400メートル。初出場となったが、力を存分に発揮し予選を通過すると、準決勝では46秒08という早稲田歴代4位(当時)の記録をマーク。期待が高まる中、冷静にレースを進めた眞々田は優勝を果たし、日本一の称号を手にした。レースを終えた後、スタンドで歓声をあげる仲間たちの姿が今でも鮮明に焼きついているそうだ。大きな目標を公言することは怖かったが、早大で陸上をしているならどんなことも自信を持って戦える。早大でやってきたことは何も間違えていなかったと確信できた瞬間だった。
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2024年早慶対抗陸上競技会でゴールする眞々田
今年1年間は副将として、110代目の競走部を率いてきた。110代続く早大競走部の副将という重要な立場に責任を感じつつも、早大でやる陸上の価値をより実感した1年間。エンジを纏(まと)って走る最後の年は、輝かしくもあり、苦しくもあった。6月には個人種目では初となる日本選手権に出場したものの、無念の予選敗退。だが、その一週間後に行われた早慶対抗陸上競技会では、45秒99と自身初となる45秒台を叩き出す。喜ばしい反面、日本選手権という大舞台に焦点を合わせることができなかった悔しさをあらわにした。また、前年王者として臨んだ日本インカレでは、ケガに苦しんだ。日本インカレの1カ月前に『左アキレス腱周囲炎』と診断され、満足のいく練習や調整ができなかった。4日間を走り抜く中で、増えていくテーピング。それでも、仲間のため、チームのため、全力で戦った。4年目にして、「4年間で最大の壁にぶちあたった」という日本インカレを終え、眞々田のラストエンジとなったのは日本選手権リレー。後輩たちは「眞々田さんに花を持たせよう」と奮起し、自身も足の痛みが引かない中、粉骨砕身の覚悟で臨んだ。結果は、惜敗の準優勝。悔しいながらも、いろいろな方々への感謝を胸に走り切ったラストエンジ。優勝は、後輩たちへと託された。
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2024日本インカレ決勝後に客席に挨拶する眞々田
『早稲田人たる覚悟』ーー。110代目のスローガンであるこの言葉が、眞々田の原動力となっていた。早大競走部の副将として、先輩として、自身の行動や発言に説得力を持たせる。自分の知識や経験を余すことなく後輩へと伝え、下の世代へとつなげていく。大切にしてきたその姿勢は、かつて自身が下級生だった頃、近くでお手本となるような姿を見せてくれた先輩と重なる。早大で陸上をする競技者として、競技力も人間力も成長し、自分のスタイルを確立できた4年間だった。高いレベルの競技者たちに囲まれ、切磋琢磨し合えるような環境があること、そしてチームとして戦う陸上を経験できたこと。早大だからこその特長が『眞々田洸大』という選手をより強くしたのだ。早大競走部での自分を応援してくださった方々への感謝を胸に、これからも競技を続けていく。曖昧な目標は、もう口にしない。眞々田が掲げる目標は、2028年のロサンゼルス五輪に出場すること、そして44秒台を出すことだ。
エンジのユニホームには別れを告げるものの、これからも早大を拠点としていく。常にエンジ戦士としてあるべき姿を見せ続けてきた眞々田。その背中を見て、憧れや尊敬の念を抱き、成長してきた後輩たちが、今後の早大競走部をつないでいくだろう。バトンは、111代目へと渡された。
(記事 會川実佑、写真 及川知世氏、加藤志保氏、草間日陽里、植村皓大)