憧れ続けた「エンジのユニホーム」
川内脩平(スポ4=東京・八王子)は、大学1年時を「何度辞めようと思ったか分からない」と振り返る。幼少期から「早大野球部の選手として、神宮で野球をしたい」と願い続けた川内だったが、2年時に学生コーチへの転身を決意。そして4年時には新人監督として小宮山悟監督(平2教卒=千葉・芝浦工大柏)と選手の橋渡し役を担った。そんな川内の4年間に迫る。
2010年11月3日、川内少年は神宮のスタンドにいた。早慶優勝決定戦が行われたその日、斎藤佑樹氏(平23教卒)や大石達也氏(平23スポ卒=現西武コーチ)の躍動を目にした興奮は、エンジのユニホームへの憧れに変わった。「六大学じゃない。早稲田で野球がしたい。」その一心で高校受験では早稲田実業高を受験した。しかし、結果は不合格。大学受験でも現役では合格をつかむことはできなかった。それでも1年間の浪人生活の末に合格を果たした川内は、三度目の正直で早大野球部の門を叩く権利を手に入れた。
憧れの早大野球部入部を果たした川内だったが、同じ捕手のポジションには後に主将を務める印出太一(スポ4=愛知・中京大中京)や栗田勇雅(スポ4=山梨学院)がいた。世代の大スターの壁は高く、「圧倒的な強さを感じた」と、その差をまざまざと見せつけられた。自分はプレイヤーとしてこのチームに貢献することはできるのか、川内は自問自答を繰り返した。何一つ貢献する事もできずに憧れの早大野球部を去ることはできない。最終的に川内は、「お前と一緒にチームを作っていきたい」という印出の言葉に背中を押され、学生コーチ転向を決意する。
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学生コーチ転向直後から一貫して心がけていたことがある。選手たちと常に会話を持ち続けることだ。大所帯の野球部にとって、選手たちのモチベーションの維持は最重要課題。川内は、「常に選手たちを見ること、そして見ていることを選手たちに伝える作業を1番大切にした1年目だった」と振り返る。川内が選手たちを見続けたことによってAチームへと昇格した選手も多い。昨年ブレイクを果たした石郷岡大成(社3=東京・早実)もその一人だ。「一緒に頑張ってきた選手が神宮で結果を出してくれることが嬉しかった」。躍動する選手たちの姿を見ることで、早大に自らが貢献している事を感じることができた。
学生コーチとして成長を続けていた川内は、4年生になると新人監督に就任。選手たちとのコミュニケーションはより緊密になった。練習メニューを決める際にも、丁寧に意見を聞き入れ、チームに問題が生じた時にも積極的にコミュニケーションを取った。神宮、そして安部球場の名物となった、高々と舞い上がるキャッチャーフライも、選手たちの要望を聞き入れた結果生まれたものだ。それでも、「グラウンドに入れば選手たちとの間に壁を作ること」は欠かさなかった。ノックも立つことができないほどに打ち続けた。厳しさを持ち続けた川内の姿勢は、チームの少しのミスも許さない姿勢へとつながったことだろう。
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4年間を振り返り、明大との優勝決定戦を最も印象的な瞬間に挙げた川内。早稲田の優勝決定戦を見てエンジのユニホームに憧れを持った少年は、野球人生最後にその登場人物となった。「これ以上ない最高の4年間」を終えた川内の姿も、きっと誰かの憧れとなったことだろう。
(記事 林田怜空、写真 西本和宏)