【連載】『令和7年度卒業記念特集』第2回 大西創志/野球 

卒業記念特集記事2026

逃げずにもがき続けた4年間

 春季リーグ戦の優勝に貢献した大西創志新人監督(人4=東京・城北)。 共に4年間を歩んできた115期の仲間のために、そして早大野球部の一員としての責任を果たすために何ができるかを追い求めた。伝統という重圧に向き合い、「逃げずにもがき続けた」4年間に迫る。

 早大野球部の新人集合日、小宮山悟監督(平2教卒=千葉・芝浦工大柏)からこのように告げられた。

「早稲田の野球部に入るということは、普通の人が許されることができなくなる。それを光栄に思わなければいけない」

高校時代までは主体性が求められる環境で野球に向き合ってきた大西であったが、入部初日から「早稲田の人間」としての自覚と責任を突きつけられた。「どんなかたちでもリーグ戦に出たい」という思いから野球部の門を叩いたが、そこに待ち受けていたのは想像をはるかに超える伝統の重圧だった。

 選手として入部した大西だったが、度重なるケガの影響もあり2年秋に学生コーチへ転向する。早大野球部では新チームの発足に合わせて学生コーチになる選手を選ぶが、そこで名前が上がったのが大西だった。それは、リーグ戦出場という入部当初の夢を自ら手放すことを意味する。もちろん、すぐに気持ちを整理できたわけではない。自分がこの115期の中で何をすればリーグ戦優勝に貢献できるのか。そして、どんなかたちでも試合に出たいという入部当初の思いとどう折り合いをつけるのか。その問いに向き合い続けた末に辿り着いた答えが、「支える側に回る」という道だった。

 同期と仲が良いからこそ、「グラウンド上では敢えて自分から距離感を作ってきた」と大西は語る。新人監督としてチーム全体を見る、厳しさが求められる立場だった大西にとって、選手との距離感が懸念点だった。

試合中は三塁コーチャーを務めた大西(背番号50)

 その中で中島稜太(人4=東京・桐朋)、畑﨑一颯(商4=埼玉・早大本庄)という同じ学生コーチの存在は大きかった。2人は選手との距離が近いからこそ見える意見を共有した。「勝ちに向かっていけるチームができたのは彼らの協力のおかげ」と大西。新人監督という重圧の中で、仲間に支えられていた。

 新人監督の仕事は多岐にわたるが、主な仕事に練習メニューの考案が挙げられる。大西は常に勝つためにはどうすればいいかを考えて練習メニューを決めてきた。また、相手選手の分析にも力を尽くした。シートノックや試合の映像を見るなど、「観察」を大事にしていたという。さらに、試合中は監督の1番近くにいる存在であるため、すぐに監督の意図を汲み取れるように準備を重ねた。

 そして最終学年として迎えた春季リーグ戦。3連覇がかかった中、「早稲田は勝って当たり前」という伝統がプレッシャーとなっていた。

 しかし大西の積み重ねは、結果に結実する。春季リーグ戦は怒涛(どとう)の5連勝で頂点に立ったのだ。新人監督としての仕事が目にみえる形で報われ、「何にも変えられない、感無量という感じだった」という。

 だが、秋季リーグ戦では優勝を逃してしまう。目の前で明大に優勝を譲った光景は、今も忘れられない景色として胸に残っている。それでも、大西の記憶に強く残っているのは優勝の可能性がない中で迎えた最後の早慶戦だ。勝利だけに意識を向けながらも、スタンドを埋め尽くす観衆、神宮に響き渡る応援に包まれ、ふと気がついた。大西は「この115期で4年間やってきた野球の集大成が、今ここにあるのだ」と実感する瞬間が幾度も訪れたという。一つ一つのプレーが、これまで積み重ねてきた日々の結晶であるということを感じ、試合中でありながら胸にこみ上げてくるものがあった。「今まで野球をやってきてよかったな」。その景色は、大西にとって野球人生を肯定してくれる、良い意味で忘れられない瞬間となった。

同期全員の名前が刻まれたヘルメット

試合に臨む際、大西は同期全員の名前が刻まれたヘルメットを被った。三塁コーチャーズボックスでヘルメットを見るたびに、ベンチ入りできなかった選手の思いまで背負っているという責任を噛み締めた。円陣では誰よりも大きな声を出した。新人監督という選手とは一線を引かざるを得ない立場でありながら、「選手以上の温度で戦っていたかった」からだと大西は語った。4年間を振り返り、大西は「逃げずにもがき続けた」と語る。その言葉には、伝統の重さから目を背けず、責任を引き受け続けた自負がにじんでいた。早大野球部は大西にとって「居場所」だった。常に野球が隣にある環境で、自信を持てるほど向き合い、考え抜いた4年間。この経験と責任の重みは、野球人生を超えてこれからの人生を支える確かな軸となるだろう。

(記事 森若葉 写真 植村晧大、西本和宏)