サッカーW杯。サッカー選手なら誰もが一度は出場を夢見る舞台だ。昨年、カタールの地で行われたW杯にて、日本代表が強豪国を下し勝ち進んだ姿は、日本中の多く人々の目に焼き付けられたことだろう。そんなW杯に憧れを抱くのは何もサッカー選手だけではない。今大会、ABEMAで実況を務めた、早稲田大学ア式蹴球部(ア式)OB寺川俊平アナウンサー(平22人卒)もまた、W杯の実況中継を目標としていたのだ。日本代表戦を含む多くの試合を実況した寺川氏に、W杯での経験やア式時代の思い出、自らの今後について語っていただいた。
※この取材は1月25日に行われたものです。
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――サッカーと出会ったきっかけは
幼稚園の時に、私がすごく仲の良かった同級生のお兄さんが近所のサッカークラブに入っていて、練習に行かないかという話になり、練習に初めて行ったのが最初のきっかけです。
――大学在学中はGKでしたが、初めはどこのポジションでしたか
記憶はあまりないのですが、小学校1年生の時にはGKでした。ただ中学受験をしたので、小5から小6まではサッカークラブに行けなくなってしまい、その時だけは、サイドバックから始まってボランチ、トップ下などを少しやっていました。あと中1からはまたGKですね。
――当時好きだったサッカー選手や参考にしていた選手はいますか
私たちの世代でGKをやっていた川口能活さんや楢崎正剛さんのことはよく見ていました。川口・楢崎論争の真っただ中で、どちらがいいゴールキーパーなのか。川口さんも楢崎さんも素晴らしいGKだった訳ですけど、派手にシュートを止めてる姿に憧れたら川口選手が好きだし、シュートストップだけじゃないポジショニングの良さや、派手なところに出ないすごさに気づき始めると楢崎さんがいいなと思ったり。ただそれが川口さんにできないかと言われると、そういうわけではなくてという感じです。
――川口さんは今早稲田大学スポーツ科学部の大学院にいらっしゃいますよね
福西崇史さんもいらっしゃいますよね。「映像が欲しい」とこの前電話をいただきました。「今、実況と解説についての卒論を書いている。外に出す訳じゃないから」と突然かかってきまして(笑)。
――暁星中学・高校への進学は学業が目的でしたか
いえ、サッカーがしたかったからです。都内で強かったし、オープンキャンパスのようなものに行った時に、きっちりとしたサッカーをやっていて、こういう厳しいところでやったら僕もうまくなれるかなと思いました。後は小学生の時のサッカークラブに、当時80歳近かった高齢のコーチがいたんです。その方は、暁星中学・高校出身で、どのコーチよりもサッカーがうまかったんです。それぐらいサッカーにのめり込んできた少年時代を送ってきたんだろうなと。だからそういう学校に行きたいと思いました。正直小3から塾に通っていて、最低限の勉強しかしていなかったんですが、どちらかと言うと校庭開放でサッカーをしていたかったんです。(受験の)スイッチが入ったのは小学校6年生の時でした。暁星にはギリギリで合格しました。
――暁星での思い出は
6年間で考えると、サッカー部の監督にものすごく恵まれていました。その後の人生の中でも教訓となることをたくさん教えてもらいました。中学に入った段階で今ぐらいおしゃべりなのに、身長150cmで合唱ならソプラノを歌えるぐらい声が高かったんですよ。合唱をするとなったらソプラノに入れられるぐらいキンキンした声をしていて、背が低くて、学校でしっかりいじめられて、中1中2では泣きながら学校に行っていました。でもすごく負けず嫌いで、「そんなんで行かなくなってたまるか」と思っていたから「こいつら全員見返してやろう、今に見てろよ」という精神で学校に行っていました。 その時ちょうど家庭も大変な状況で、突然両方の祖父が亡くなったり、母がガンを患ったり。一人っ子で父が単身赴任で一緒に住んでなかったので、朝練習に行って学校で授業を受けて、午後練習に行って、母が入院していた病院に見舞いに行って、家に帰って一人でご飯を食べるような生活をしていました。苦しかったけれど、サッカー部の田中監督がいつもすごく厳しく真っ直ぐ向き合ってくださいました。中学の時は、背の高い上手な同級生がライバルで、あまり試合に出られなかったんです。2人で練習をしていたのですが、ずっと私はサブでした。ですが、関東大会で負けた時に、その同級生が骨折をしてしまったんです。だから最後に高円宮杯U15東京予選の3回戦ぐらいに私が出ました。その日に監督が「後ろのゴールキーパーを見てみろ。3年間ずっとひたむきに頑張り続けた寺川がいるぞ。だから寺川を信じて、今日は勝つんだぞ」と言ってくださったことが強く印象に残っています。何か苦しいことやつらいこと、うまくいかないことがあっても、続けていればいつか誰かに認めてもらえる日が来ることを教えてもらいました。 父がずっと単身赴任で、ほとんど一緒に暮らしたことがなかったので、田中監督が父親代わりのような存在だったところもありました。監督は実は私が中学3年の時に、重い病気を抱えて入院したり退院したりを繰り返しておられました。私が高1の時に、監督が亡くなられました。その時は、どの親族が亡くなった時よりも落ち込んだし、辛い気持ちになったのを今でも忘れないです。 人生の生きる指針をつくってくださった田中監督が亡くなった後、中学生以降で初めて、高3の1年間はまるまるレギュラーとして出ることができました。その1年間を見ていた、自分の2年後輩に、日体大に行って、現在はいわきFCでゴールキーパーをやっている田中謙吾という、選手がいました。その彼は実は田中先生の息子さんで、中学まではゴールキーパーではなかったんです。ですが、私の背中を見て、ポジションの話になった時に、ゴールキーパーをやってみようという話になりました。私が卒業した時には私の背中を見てくれていました。つまり私の父親代わりだった方の息子さんが、私を見てゴールキーパーを志して、今ではプロまで行くという、そんな巡り合わせってあるんだなと思っています。 中高時代はよくないこともたくさんありましたが、よくないことがないと、いいこともないのかなと思います。そう思わせてくれる言葉を常に与え続けてくださったのが今のサッカー協会の副会長であり、当時の僕の高校の監督である林義規先生です。結果的に私が早稲田に行きたかったのは林先生が早稲田出身だったからなんです。とても厳しい方でした。常に厳しい指導もたくさん受けました。林先生にずっと言われていたのは「苦行を修行と思え。そうすれば自ずから道が開ける」という言葉です。苦しいことも自分を高めるための修行だと思えば、いつかは道が開ける。苦しい辛いと思っている時ほど人は成長しているから、そこを自らを高めるための修行だと思って前向きに向かっていけば、どこかで未来が開ける瞬間があることを教えていただきました。
暁星高時代を振り返る寺川氏
――早稲田に来てサッカーを続けようと思った理由は
一つは林先生が早稲田のOBであったことで、全く同じ経歴をたどりたかったということと、もう一つはずっと私は西武新宿線沿線で育ったので、早稲田を身近に感じていたからです。なぜ早稲田に入るだけではなく、サッカーも続けたかというと、やめる勇気がなかったからです。サッカーがなくなった生活を考えることができなかったのが大きかったのかもしれません。サッカーに関わらない生活をするなんて考えられないと。ではもしサッカーをサークル活動でするとなると、やはり刺激が足りないかなと思って。だったらトップレベルの人が集まるところに入れたらラッキーだなと思い、大学受験をしました。
――その当時の早稲田は東京都リーグとかに在籍していた時期でしたよね
東京都リーグから上がって、関東2部から1部に上がった初年度ですね。一気に都1部から関東2部、1部へと上がったタイミングでしたね。
――ア式蹴球部の新監督の兵藤慎剛監督(平20スポ卒=長崎・国見)も在籍していましたよね
兵さんは私のちょうど2年先輩です。だからこの前、兵さんが監督になるんだって聞いてびっくりしました。
――当時の兵藤監督は世代でもトップをいくような選手でした。そういった選手が周りにいる環境というのはどのように感じていましたか
「テレビで見たことがある人が走っている」となりますよね(笑)。私の出られなかった高校選手権で優勝した人がいっぱいいる、スーパースターだらけだなとやっぱり思いました。すごく大変な所に来てしまったなと思いました。
――ア式蹴球部での思い出を挙げるとしたら
今言った兵藤さんが3年生で、松橋優さん(平19スポ卒)が4年生。それでGKは4年生に時久省吾(平19スポ卒)さんがいて、時久さんも高校サッカー選手権で大津高校出身で大活躍していました。本当にスーパースター揃いのポゼッションサッカーだったんです。大学界では考えられないですけど、走りのメニューも少なかったです。今の早稲田はまたしっかり走ろうぜというところで、それはまた世界のサッカーのトレンドにもなってきていますが、当時は大学版バルセロナみたいになっていたから、みんながすごくうまくかったです。GKからも常に全部繋げというプレーでした。そんな中で最初自分は下手で全然できなくて、5mのパスを出すことにすら足が震えてしまって。それで周りからも下手呼ばわりされて、うまくいかない1、2年を送りました。 3年生くらいからBチームだったのですが、インディペンデンス・リーグ(Ⅰリーグ)があったので、そこで試合に関われそうになったり、ちょっとした手応えも出てきました。最終的に一番良い思い出だなと思ったのは、自分がⅠリーグに出られたということより、4年生の時、ア式は私たちの代が関東リーグで降格しそうだったんですよ。それで残留のために勝たなければならないという試合で、ケガでなかなか出られなかった反町一輝(平22スポ卒)が復活して、ここで負けたら厳しいという試合で大活躍して勝った時に、私はスタンドでワンワン泣きました。あ、これで泣けるって、やっていてよかったなと思いました。この同期のことを好きになれたんだなと。だから大学サッカー部の同級生とは今でも集まることがあります。グループLINEは何かある度に動いています。今だにちょっとバカにされるんですけど(笑)。
ア式蹴球部時代の寺川氏
――どのようなことを言われるのですか
例えばこの前のワールドカップを機に、色々なメディアに取材をしていただいて、それが記事になったりするとその記事がグループLINEに上がったりして(笑)。そこで大学時代のことも聞かれるので、「10人いたGKの中の5番目くらいでした」などと言うと、実際5番目、6番目、7番目とか分からないからそう言ってるのですが、みんなから「じゃあ寺川の上の4人と下の4人を教えろ」みたいな(笑)。「誰のことを上だ、下だと思っているのか」というような。そういういじりは結構あります。
――仲の良さ以外でア式での経験で今に生きているなと思うことはありますか
目標や夢を持つことの大切さを教えてくれた同級生がいます。ちょうど数日前に久しぶりに会ったのですが、また考え方が変わりました。その彼は大学2年生の終わりくらいに「テラは将来どうするの?」って聞いてきました。それで私は「大手企業に入れればいいかな」と返したら、彼は「テラ!それじゃだめだ」って(笑)。「なんでもいいんだよ、抽象的でもいいから夢がないとダメだ!」と言うんです。浜村元大(平22教卒)というんですが、元大は「俺は金持ちになりたい」と言っていました。本当に金持ちになりたくて、銀座を歩き回ってお金持ちそうな人に、片っ端から話聞いていたというぐらいのやつなんです(笑)。結果、彼は就職せずに大学卒業とともに起業しました。だからサッカーもちゃんと練習に来ていたけれど、どちらかというとサッカーというよりはビジネスの方に向かっていました。 その時私が思いついたのが、「しゃべりの面白いおじいちゃんになりたい」ということでした。どうしてかと言うと、元大が「死に方を考えろ」と言っていたからです。お葬式は焼香し終わったら、別に部屋が用意されていて、お寿司が置いてあって、お茶があって、みんなで故人を忍んで、献杯しましょうみたいなことがありますよね。あそこで日本酒やシャンパンを私の遺影にかけるような人間がいるような、そんな人生がいいなって、その時思ったんです。元大は「夢から逆算しろ!喋りが面白いおじいちゃんになるためにはどうしたらいいんだ?お前は今まで何をしてきたんだ?」「サッカーしかしていない」「サッカーがあってよかったじゃん。じゃあ将来なりたいおじいちゃんになるにはお前どうするんだ?逆算したらいろんなところに行った方がいいよな。海外行くか?」「いや俺日本好きだしな」「じゃあ日本でやるか」みたいなやり取りをしたんです。そこからその話を1、2週間くらい毎日していました。その時にふと思い浮かんだんです。「サッカーの代表戦を実況したら面白いんじゃね?」って。それで私実況アナウンサーになりたいって思ったんです。でも、ア式の活動が忙しいし、 アナウンサースクールなどもどこでやっているか知らないし、そもそも、アナウンサーってオーディションでもしてるの?というところからのスタートでした。普通に採用試験があって、いわゆる普通の就職活動みたいにやっているとは知りませんでした。そこから初めてどうやったらアナウンサーになれるのかを調べました。そうしたらちょうどその時にチームメートと話していた時に、その当時のチームメートの彼女がアナウンサーを目指していたんです。それこそテレビ朝日アスク(アナウンサースクール)に通っていたんです。それでその時に電車の車内で教本を借りて読んだんです。そうしたら「テラ行けるんじゃない!?声良いし!」ってなったんです(笑)。見事にそれで調子に乗って、じゃあアナウンサー試験を受けようと夏のセミナーに申し込みました。「エントリーシートってウケ狙いで書いちゃだめなんだ」と、そこで初めて知りました(笑)。それにアナウンサー試験のエントリーシートってスナップ写真が必要なんです。その時はスナップ写真って何だって思って、ガラケーで調べたんですけどよく分からなくて(笑)。結局写真館に撮りに行きました。ばっちりスーツで決めて、「今から出馬します」みたいな写真をテレビ朝日に送った記憶があります(笑)。
――他に早稲田に入ってよかったと思ったことはありますか
今回のワールドカップの放送は私がABEMAで結構多くの試合を担当して、実は日本戦4試合で中継車に乗ってタクトを振るうチーフディレクターが僕の入社同期だったんです。それが僕のア式での同期なんです。大学時代は僕の学年で一番仲の悪い二人といったら僕たちだと言われるくらい仲が悪かったのですが(笑)、まさかの同じ会社になって、13年一緒にやってきて、今となっては一番信頼できる同期です。僕は本当はワールドカップの実況を地上波でやりたかったんです。テレビ朝日に入っていますし、結果的にこうなったからいいのですが、やはりそこを目指してずっとやってきましたので。それで9月くらいに精神的に沈んだ時があって。その時に彼と二人で酒を飲みに行きました。そうしたら、「誰かのせいにしたり、誰かを恨んだりできているうちはまだ余裕がある証拠だぞ。本当に向かわなきゃいけなくなったら、今やることをやるしかねえんだ」って言われました。それで気持ちをうまく切り替える方向に持っていけました。実際本番でも中継車に彼がいるというのは僕にとっても安心感がありましたし、きっと彼だったらこういう画を撮ってくれるんじゃないかとお互いを高め合い、認め合い、信じ合いながら中継をできたと思います。しかもずっと思い描いていたワールドカップの舞台で、すぐ近くに彼がいてくれたというのは、そういった友人と出会えた早稲田に入って良かったなと感じました。まあ仲が悪かったけど、意外となんか腐れ縁みたいになって、気づけばすごい大事な戦友みたいになっていることもあるんだなって思いました。
(取材・編集 髙田凜太郎、板東萌 編集 渡辺詩乃 写真 ア式蹴球部提供、星野有哉)
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