Jリーグ初代チェアマン(代表理事)の川淵三郎氏(昭36商卒)と、今秋に開幕する日本初の女子プロサッカーリーグ、WEリーグの初代チェアを務める岡島喜久子氏(昭58商卒)の初代リーダー同士の対談が実現。男子サッカー、女子サッカーの黎明期に活躍をした両チェアに、当時の2人を取り巻いた環境や、在学当時の早稲田大学での思い出を語っていただきました。
※この取材は8月13日に、万全な感染対策をして行われたものです。
「何か一生懸命打ち込めるものがあれば、道が開ける可能性はある」(川淵)
東京五輪の意義を語る川淵氏
――東京五輪で早稲田大学出身の選手が活躍しましたが、印象に残った試合や選手を教えていただきたいです
岡島 瀬戸大也選手(平29スポ卒)ですね。期待は大きかったけれどメダルは獲れず、予選で負けてしまった試合もありました。でも最後に(200メートル個人メドレー決勝で)4位になった時に、「萩野(公介)選手と泳げて良かった」って言っていて、五輪に参加する意義を伝えてくださいました。メダルを取れなかった中でも心に残る言葉をくれた選手もいて、瀬戸選手はそのうちの一人でした。
川淵 今回の東京五輪は、日本の五輪史上で最もメダルを獲った大会だけれど、今回ほど参加する意義を象徴的に我々に示してくれた大会は過去になかったなと感じます。そういう意味では、僕としては良かったな。
――例えばどういう点で「参加する意義が示された」という思いを抱かれましたか
川淵 金メダルを獲らないと価値がない、人生がすべて終わったかのように(選手が)思ってしまう事例が過去には山ほどありました。でも今回はメダルを獲れなかった選手も、冷静にこれまでの自分の戦いについて話していた。今までだとそういう場合は、泣き崩れて取材がままならないようなケースがあったけど、選手が一回り成長しているかなという印象だったね。表現のしようもないくらい悲嘆にくれている場面が意外となかった。そこが今回の五輪の一番良かった点だね。
岡島 瀬戸選手も最後はにこにこされていましたしね。
川淵 タッチの差で銅メダルを逃したけれども、「ベストを尽くしたし、二人が一緒に戦えたことがどれだけ素晴らしいか」と言えた選手、大会は今までなかったよね。
――そんな印象的な場面を彩った選手が多い早稲田大学ですが、お二人が早稲田に入学された経緯を伺いたいです。特に川淵さんは二浪を経て早稲田大学に入学されたそうですね
川淵 サッカーが面白くて、浪人中も毎日高校に行って後輩と一緒にサッカーをやっていたんだよね。今考えたらその時、一体何を考えていたのかなと(笑)。二浪目の年に全国都市対抗戦という大会の大阪代表を決めるトーナメントがあって、決勝戦で大阪クラブという、当時日本代表が5人くらいいたチームと対決したのね。それまでそういうレベルが高いチームと試合をしたことがなくて、延長戦で0ー1で負けたんだけど、俺も日本代表になれるなと思ったのが本格的にサッカーをやろうと思ったきっかけだね。そのときに、日本代表の監督をしていた川本泰三さん(昭12政経卒)が、「川淵は日本代表クラスだから早稲田に行ってプレーしたらいい」と言ってくれて、早稲田に入学することになったんだ。浪人中にサッカーを熱心にやっていたから、入学してすぐにレギュラー入りできたし、1年生の後半から日本代表にも選ばれた。あの時、一生懸命勉強してそこそこの大学に入っていたら、僕の人生は平凡でつまらなかっただろうね。そういう意味で、人生って本当にわからないもんだよね。
岡島 運動能力がすごく高い(笑)。
川淵 足が速かったことだけは事実ですね。人生なんて1年や2年、多少ボヤッとしていてもなんとかなるものですよ。経済学者の中谷巌さんという人が言っていたんだけど、なんでもいいからひとつの道に1万時間没頭すれば、必ず一角の人物になれるという。俺はサッカーを、東京オリンピックまでの時間で言うと1万時間くらいしていた。勉強といっても予備校に行くにはお金かかるから、家に迷惑かけちゃ悪いなと思って行かなかったからね。だからそういう意味では、あの2年間があったから今がある。だから人生ってわからないんだよ。でも何か一生懸命打ち込めるものがあれば、道が開ける可能性はありますよ、ということじゃないかな。
――岡島さんはいかがでしょうか
岡島 中学校の頃からサッカーを始めたのですが、一時期は東伏見でサッカー部の方がコーチをしてくださっていたんです。それがきっかけで東伏見に行くようになり、「すごく楽しい!うれしい!サッカー部の選手すごい!」と思って練習を見に行くようになったんです。慶應も受かっていたのですが、早慶戦で負けるのが嫌だったので、絶対に早稲田に行きたいという気持ちでした(笑)。その時はもちろん男子サッカー部しかなかったんですけどね。
――今でこそ女子サッカー部がありますが、当時は違いましたよね
岡島 はい。羨ましいです(笑)。私はずっとFCジンナンというクラブチームでプレーしていました。そのクラブチームは日産が吸収して、日産FCレディースという形になって。Lリーグ(※)に参加したのですが、94年か95年くらいに、日産が営業赤字を出した次の年に廃部になってしまいました。
――ア式蹴球部での思い出があればお聞かせください
川淵 早稲田のサッカー部というのはすごくリベラルというか、先輩に殴られたりした記憶なんて一切無いんだよね。本当にいい先輩というか、いい早稲田のサッカー部に恵まれたね。今は部員が100人くらいいるのかもしれないけど。当時は20数人で、紅白戦をするのがギリギリくらい。その中に代表クラスが3~4人いたからレベルが違っていた。当時はプロリーグなどないから、大学サッカーが一番レベルが高かったんだよね。それに大学リーグのメンバーと戦評が新聞に載っていたんだよ。スポーツの数もそんなに多くなかったからかもしれないけど、大学サッカーは関西でも大きく取り上げられていたね。先輩には轡田隆史さん(昭33政経卒)という人がいて、朝日新聞に入社して「素粒子」ってコラムを書いていた人なんだけど、轡田さんは早稲田に入った時に4年生で、これは「クツワダ」と読むんだとわかった(笑)。だから関西の人間でも早稲田のメンバーを知っていたくらい、大学のサッカーの人気があった。全試合じゃないけどNHKでも中継していたからね。
岡島 天皇杯に大学のチームがいっぱい出ていましたもんね。
川淵 そうそう。それで大学のチームがだいぶ優勝したからね。
岡島 今はJリーグしか優勝できないですからね。
川淵 今なんかは関東リーグの試合結果も載らないもんな。時代がやっぱり違うよね。
※Lリーグ・・・日本女子サッカーリーグの通称。「なでしこリーグ」とも呼ばれる。
「日本の選手が海外に行って修行してほしいし、私たちが海外の選手を獲ってくるというのが絶対に必要」(岡島)
今後の女子サッカーについて語る岡島氏
――今は大学サッカー経由で日本代表に入る選手が増えました。東京五輪で活躍をした相馬勇紀選手(平31スポ卒)は2年前までア式蹴球部に在籍していました。そういった面で、大学サッカー経由でプロになっていくことについてはどうお考えでしょうか
川淵 ずっと言っているんだけど、(大学サッカーは)固定して試合が見られるところがないんだよ。どこで試合がやっているのかがわからない。大学時代の同級生が早稲田の結果を必ず電話で教えてくれるんだけど、「今日どこにいるの?」と聞いたらとんでもないところにいたりするんだよね。そんなところに誰が見に行くんだという(場所)。それなら早稲田の練習場に仮設のスタンドを作って、そこに見にきてもらったほうがよっぽど良いよね。その努力が足りない。スタジアムが無いということだけではなくて、自分たちでお客さんを呼び込む努力を全くしていない。それが大学サッカーの認知度を上げられない大きな理由だよ。
――「大学」がひとつポイントになるのでしょうか
川淵 思い出したんだけど、早稲田の田中(愛治)総長とお話した時に、今の若者は早慶戦に行かないという(話があった)。昔はチケットがなかなか手に入らなかったけど、今は学生がスポーツに興味を示さなくなったということ。それはすごく寂しいことだね。母校愛というのは早慶戦のような、スポーツを応援することで育まれるのに、スポーツ科学部の方に選手が集まっているから、他の学部の学生が関係ないと感じている。早稲田のスポーツをみんなで応援することが自分たちの存在そのものにつながると思うね。学生スポーツの雄たる早稲田がこれじゃあだめだ。それを今日言いたかった(笑)。
――日本サッカーの今後の展望についてお聞かせください
川淵 日本サッカー協会(JFA)は「JFA2005年宣言」で、2050年までにはW杯をもう一度日本で開催し、そこで日本代表が優勝すると宣言しているんだよね。それはただ単に夢を語っているだけではなくて。W杯(開催地)の順番から言うと、2050年くらいにアジアで開催できる可能性があって、それまでにはヨーロッパの5大リーグで相当数の日本人選手が活躍していて、その中に(競技は違うが)大谷翔平選手(MLB、ロサンゼルス・エンゼルス)のように、フィジカルとテクニックの秀でた選手が出てこないとも限らないわけだから。そうすれば優勝する可能性があると思うね。僕はJリーグを作った当時、果たして日本人にサッカーは向いているのだろうかと疑問を持っていたんだよ。ラモス(瑠偉)よりもうまい選手は日本に出てこないんじゃないかと思って。でも全然違って、いるわいるわ、うじゃうじゃ(笑)。日本人に結構サッカーが合ってるなと今は思っているんだ。だから、絶対にW杯で優勝できると思うね。
岡島 女子サッカーは、やはりもう一度なでしこジャパンに世界一になってもらうというのが、WEリーグの命題でもあります。ただ、これからWEリーグが始まって、これからプロになって、私としては2023年のW杯、2024年の五輪で差が出てくるように、WEリーグで強化していきたい。2023年を見てください、という思いです。あと2年です。
――今回の大会で少し世界との差が開いてしまった感もありました
岡島 世界のレベルはずっと上がってきているんです。日本が下がったわけではなく、他の国が上がったんです。だから、十分にキャッチアップできると思いました。それには日本の選手が海外に行って修行してほしいし、私たちが海外の選手を獲ってくるというのが絶対に必要だと思います。WEリーグ全体のレベルアップが不可欠ですね。
――ありがとうございました!次回は「WEリーグ」について深く伺います!
(取材、編集 早稲田スポーツ新聞会 手代木慶、橋口遼太郎)
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◆川淵三郎(かわぶち・さぶろう)(※写真右)
1936(昭11)年12月3日生まれ。昭36年第二商学部卒。1964年、日本代表として東京オリンピックに出場。以後サッカー日本代表監督などを歴任し、1991年にJリーグ初代チェアマンに就任すると、2002年より日本サッカー協会会長を務めた。2015年には日本バスケットボール協会会長に就任。2020東京オリンピック・パラリンピックでは選手村村長を務めるなど、サッカー界に限らずスポーツ界の発展に多大な功績を持つ。愛称は『キャプテン』。
◆岡島喜久子(おかじま・きくこ)
1958(昭33)年5月5日生まれ。昭58年商学部卒。中学年代よりサッカーを始め、72年にFCジンナンに入会。日本女子サッカーの黎明期に競技し、83年には日本代表に選出。大学卒業後は外資系銀行に就職し、結婚を期に渡米。以来、アメリカに拠点を置き活動している。20年、翌21年秋に開幕する日本初の女子プロサッカーリーグ、WEリーグの初代チェア(代表理事)に就任。