【連載】『令和7年度卒業記念特集』第61回 梶村颯汰/男子バレー

卒業記念特集記事2026

最高到達点を探し求めて

「僕が死ぬ時に、僕の哲学で生きてくれる人がたくさんいる状態が理想です」。そう真剣に語ったのは、梶村颯汰(スポ4=東京・安田学園)。梶村の言葉には、早稲田での4年間で練り上げられた強固な意志が宿っていた。一般入試で早大に入学し、大学バレーのトップ軍団の中で己の無力さに打ちひしがれながらも、彼はコート外での組織改革と、コート内での泥臭いリーダーシップで、早大バレーボール部に新たな息吹を吹き込んだ。

東日本インカレでサーブを打つ梶村(4年時)

 バレーボールとの出会いは、あまりに偶然だった。中学入学時、幼稚園の時からやっていたサッカーを続けようと思っていた。サッカー部に見学に行こうとスパイクを手に練習場へ向かったが、その日はあいにくの休み。たまたまやっていたバレーボール部の練習にサッカーの格好で飛び込むと、未経験ながらセンスを褒められた。当時流行していた「ハイキュー!!」の影響もあり、二つ返事で入部を決意する。

 進学した安田学園中は全国常連の強豪校だった。初心者の梶村は必死に食らいつき、その深みにハマっていった彼は、かなりの「バレーバカ」だったという。中学進学のきっかけだった修学旅行のカナダ行きを蹴って挑んだ全中予選。しかし、関東大会で敗退し、全中も修学旅行も失った。手元に残ったのは、国内で手渡された英語の宿題だけ。彼の心には「何も達成できなかった」という思いが残った。

 高校時代は一転、1年次からレギュラーを張り「(チームの中では)自分が一番強いと思っていた」と明かす。その傍若無人な態度は同期からの孤立を招いた。しかしその態度を反省した彼は、同期との対話を通して徐々に和解していった。高校3年時には勉学に励むため、インターハイでの引退を決意。そして、早大の合格を自力で掴み取った。

早慶戦(2年時)

 期待を胸に大学に入学するも、この4年間は何度も何度も折れそうになった。入学当初は、同期も選手もスター選手ばかりで、今までやってきたバレーは何だったのか、と実力差に打ちひしがれた。1年目は大学の部活特有の厳しさに精神がすり減り、4年間全く試合に出られないで終わるかもしれないという恐怖もあった。2年目には、1個下の後輩に優秀な子達が入ってきたという重圧。鳴物入りで入ってきた後輩たちの姿を見て、「選手をやめようか」そう思ったこともある。

 3年目に上がる頃には喉の手術で入院も経験し、さらに遅れをとってしまうのではないかと、大きな不安を感じた。この経験は、梶村にとってはすごく大きなつまづきだった。松井泰二監督(平3人卒=千葉・八千代)に泣きながら「やっていける自信がない」と打ち明けたこともあった。

 それでも踏みとどまれたのは、受験期に知った「バレーができない苦しさ」があったからだ。週6日、体育館でバレーができる環境がなくなることは、彼にとって何よりも想像し難いことだった。バレーができない苦しさよりも、ただ苦しい方がいい、という思いで耐え忍び、「自分たちの代で優勝する」という目標を持って走り続けた。

 副将となった4年目、梶村が目指したのは「誰もが真似できるリーダー像」だった。先輩である、水町泰杜(令6スポ卒=現ウルフドッグス名古屋)のようなカリスマ性は自分にはない。だからこそ、チャンスボールを丁寧に扱うこと、挨拶をすること、声を出し続けること。「誰にでもできることを誰よりもやる」。その泥臭い姿が、組織を繋ぎ止める結節点となった。

黒鷲旗で喜ぶ梶村(4年時)

 そして、自信を得るきっかけとなったのは黒鷲旗全日本選抜大会(黒鷲旗)と秋季関東大学リーグ戦(秋季リーグ戦)だった。黒鷲旗は「誰が出てもこのチームは強い」その可能性を感じる試合だった。秋季リーグ戦では、日体大戦での敗北を機に、監督や同期と対話を重ね、その後は全員で同じ方向を向き、勝ち星を集めていった。そして迎えた、全日本大学選手権(全日本インカレ)。最後は同期とともに優勝の瞬間をコートで迎えることができた。梶村の目からは喜びも、苦悩も、悔しさも、全てが報われた涙で溢れていた。失セット0での完全優勝という快挙を成し遂げ、「異常を極めた」優勝となった。

 この早大の4年間で得られたことは人の財産と、早稲田の哲学。同期や先輩、監督、OBOGなど、様々な関係者との出会いがあった。また、「当たり前のことをちゃんとする」、「人として大事なことをぶらさないで判断する」松井監督から教わった、この2つの「早稲田の哲学」が今の梶村をかたち作る大切なピースになっている。

全日本インカレ初戦で佐藤遥斗(スポ3=東京・駿台学園)と抱き合う梶村(4年時)

 梶村の功績はコート内に留まらない。「自分がいなくなったら部が回らないくらいの状態を作りたい」と、部公式Instagramの設立やジュニアスクールの運営、早慶戦の協賛金獲得に奔走した。組織内の反発もうまく巻き込み、新たな価値を創造していく過程で得た「実績」と「自信」は、プレーヤーとしての葛藤を補って余りある財産となった。

 卒業後、コンサルティング業界の道へと進む。選んだ理由は「自分より高い視座の人に、鉄を打つように叩いてもらいたい」から。早大で学んだ「当たり前のことを徹底する」「品性を大事にする」という哲学を、ビジネスの世界でさらに洗練させるつもりだ。

 「元から僕はこうではなかった。」後輩たちに伝えたいことは、「勇気さえあればなんとかなる。できるだけ高い環境に身を置いてほしい」。自らが高い環境に飛び込み、もがき、居場所を切り拓いてきた証でもある。梶村颯汰という一人の人間の哲学は、早大のコートを飛び出し、より大きな舞台で最高到達点を探し続ける。

(記事 井口瞳、写真 井口そら、井口瞳、町田知穂)