愛される唯一無二な代表委員主将
令和7年度代表委員主将として応援部をけん引した豊島悠(教=神奈川・桐蔭学園)。年間目標「心」を掲げた豊島は、令和7年度執行委員で唯一のリーダー部員という異例の状況に身を置く中でも、4年間を全うした。自身が「先輩、同期、後輩の大きな支えがあった」と振り返る応援部人生を振り返っていく。

「伝統の勝利の拍手」を披露する豊島
「一度きりの大学生活、何か打ち込めるものを見つけたかった」、「もっと熱中できるものを」そんな気持ちでたどり着いたのが早稲田大学応援部だった。豊島は「恐れはなかったですね」と入部当時を振り返る。練習などでは厳しい指導を上級生から受けるものの、上級生とご飯に行く際などに感じた人間味のある温かさに支えられたという。苦しみを分かち合う同期がパート内にいない中、先輩の支えを糧に新人時代を過ごしたのだ。そして、この新人の時の経験は豊島が後に主将になった際に、大きな影響を残す。
その冬に部員昇格を果たした豊島だったが、2年の春には思うように部活に参加できない時期があった。本来は2年生部員が新人の指導にあたるが、この時は3年生の新人監督補佐が新人への指導をサポートしてくれたという。このような経緯もあり「後輩には優しい1個上の先輩になってしまったかな」と口にしたが、「2年が新人に抜かれてはいけない」という強い気持ちを持って、2年時の活動や練習に励んだという。

3年時の豊島。学生注目を行う様子
3年生になり、補佐として部の運営を担う立場になった豊島は、「自分がいかに足りないか」を実感したという。同じ補佐役職とミーティングを行う際にもあまり意見を言わないことが多く、吹奏楽団とチアリーダーズの同期にかなり助けられた1年間だったと口にした。
3年生になるまで、自分が代表委員主将になるということについて深く考えたことがなかったという豊島。新3年生になる時の代交代式にて、当時の新代表委員主将が校歌指揮を行う姿を見て自身も身が引き締まったという。そんな3年時の豊島にとって、特に記憶に深く残っているというのが明治神宮野球大会だ。試合中に応援曲のサイン出しをやらせてもらったことが印象的で、「実際にやってみるとすごい頭を使っていて、パニックになりそうだった」と語る。そんな濃厚な経験を経て豊島は最終学年へと進んでいった。

印象的だと語った明治神宮野球大会にて、旧代表委員主将とサイン出しをする豊島
そして遂に代表委員主将に任命された豊島は「主将としての在り方」という困難に直面する。「同期が何人かいればそれぞれ、部を締める人、フォローをいれる人と役割分担ができるが1人だとなかなか難しかった」。当初は、威厳のある硬派な主将を目指した豊島。しかし、自らの性格と向き合った時、そのような主将像は窮屈に感じた。「一度、自分のやりたいようにやってみようと思った。素の自分でも後輩達から尊敬されるように頑張ろうと考えた」。入部当初に感じた先輩の「かっこよさ」を自らの形に落とし込み、唯一無二の主将像を目指した。
「リーダー部員が1人だったからこそ3パート(リーダー、吹奏楽団、チアリーダーズ)で応援を作り上げた感じが強い」。豊島はステージの練習ごとに各パートと細かく連携を確認し、より良い「応援」を目指した。さらに、吹奏楽団とチアリーダーズの同期から本来ならリーダー部員が行う仕事を担ってくれたり支えてくれた。「両パートの助けがあったからこそ堂々とステージに上がれた」と豊島は同期の助けに感謝の言葉を口にした。ステージや応援にてほとんどを豊島一人で担うことについては「辛いというよりも楽しかった。1人だったが故の醍醐味であった」と当時を振り返る。

「六旗の下に」での豊島。全身全霊でステージを披露した
「心を込めた応援」をモットーに豊島は代表委員主将を務めあげた。そんな応援は「たった1人のリーダー」というよりもむしろ、3パート全員で応援を作り上げていく応援部の本来の姿を表現するものであった。「1人と感じたことはない。先輩、同期、後輩の繋がりを強く感じていた」。多くの人に支えられながら主将を務めた背景には、豊島の人柄があったのかもしれない。入部当時に感じた先輩部員の「カッコよさ」は豊島の中で受け継がれ、自らの形へと昇華された。そして今、その姿は後輩たちへと確かに継承されている。応援部の全力の応援はこれからもまた選手と観客の「心」を熱くする。
(記事 土橋俊介、鳥越隼人 写真 井口瞳、土橋俊介 取材 土橋俊介、山口愛結)

豊島にとって最後の野球応援にて、豊島と新人部員たち