かけがえのない財産
「本当に早稲田でラグビーができて良かった」。この4年間をそう振り返るのは、西浦剛臣(社4=ニュージーランド・ハミルトン・ボーイズ・ハイスクール)だ。LOらしからぬスピードを生かしたボールキャリーと献身的なハードタックルを武器に、今季、赤黒の4番を背負ってきた西浦。しかし2年時にはWTBとして赤黒のジャージーに身を纏っていたという異色の経歴を持つ。単身で異国の地に渡り経験を積んだ高校時代。そして、一時は早大の翼として、最後には第二列として2回の赤黒をつかんだ早大での4年間の軌跡をたどる。
西浦がラグビーと出会ったのは小学1年生の頃。経験者である父に連れられ、ラグビースクールの体験に行ったことがきっかけだった。だ円球を追いかける楽しさに魅了され、気づけばその虜に。当時から「ずっとラグビーを続けていくんだろうな」という予感がしていた。それと同時に、この頃から西浦には繰り返し口にしていたことがあるーー「ニュージーランドの高校に行く」。初めは冗談混じりで言っていたこの言葉。しかし「昔言っていたことがずっと頭にあった。海外に行きたいと思っていたので、選択肢はニュージーランドしかなかった」。両親の仕事の関係で海外生活を経験し、英語を学んでいたことも後押しとなり、ニュージーランドへ渡ることを決意した。
ラグビー大国で過ごした3年間は西浦にとって、とても刺激的なものだった。何より衝撃だったのが周りのレベルの高さ。当時の仲間の中には、現在ヨーロッパで活躍している選手も多く、彼らのポテンシャルの高さには圧倒されたという。一方で、「決まったことをやるのではなく、基礎練習をしながらそれを試合の中でどう判断してプレーするのか。自由ではあったけれどその分個人の判断能力を求められるというのは、ニュージーランドならではだと思うし、それがしっかりできるのがラグビーIQの高さでもあるとも感じた」。ハイレベルな環境で揉まれていく中で基礎と状況判断の大切さを学び、充実した高校生活を過ごした。その後、自分自身のプレースタイルや勉強面を鑑み、日本の大学への進学を決めた西浦。「ラグビーも強くて勉強もしっかりやれるところに行きたい」と、高いレベルでの文武両道を目指し、一年間の浪人の末、早大ラグビー蹴球部の門を叩いた。

2年時、春季大会・明大戦でタックルを外しにいく西浦
コロナ禍で始まった大学ラグビー。活動に制限はありつつも、「出場機会には恵まれていたし、あまり不自由を感じてはいなかった」と振り返る。そして2年時の春、札幌ドームで行われた早明戦で待望のメンバー入りを果たす。「その週に初めてAチームに上がって、しかもいきなりスタメンに選ばれたので嬉しさよりも緊張が大きかった。一週間ずっと緊張していたけれど、札幌ドームを見回した時にこんなところで試合できるんだという喜びと楽しさが湧き上がってきた」と、赤黒デビュー戦は西浦にとってかけがえのない思い出となった。その後もWTBとして先発出場を続けていた西浦だったが、「ミスも多くてなかなか活躍できていない、自分の中でも納得いかない期間が続いていた」という。そんな西浦の迷いはプレーにも顕著に表れ始める。夏合宿が始まって以降、みるみるうちに調子を落としていき、最終的には疲労骨折で離脱することに。「実際に試合に出てWTBとしての自分に限界を感じていた部分はあった」。そんな時に入ってきていたFW打診。「ここでチャレンジすることで何か新しいものが見えてくるかもしれない」。このままでは終われないという悔しさと希望を胸に、ケガ明けの2年秋シーズン、FWとして西浦の新たなラグビー人生が幕を開けた。

3年時、ジュニア選手権・慶大戦でボールキャリーする西浦
しかし、その道のりは決して平坦なものではなかった。それまでの競技人生ではBK一筋だった西浦にとって、FWとしてプレーすることはまるで「全く別のスポーツをしているようなもの。スクラムもラインアウトもやったことがなければ、プレースタイルも違う。今まで培ってきたスキルが生かせない部分も多くて大変だった」。転向してからはAチームはおろか、下のカテゴリーで試合に出るのが精一杯。一度手にしたはずの赤黒のジャージーも、もはや遥か遠い存在となってしまった。
一番辛かったという3年時の一年間。それでも西浦は決して向上心を絶やすことはなかった。「自分は全部教わる立場だと思っていたので1年生のつもりでやっていた。もう吸収できるところは全部吸収しよう、自分の型は気にせず、とにかく周りにどんどん聞いてそれを身につけていこうと思っていた」。周囲の支えと同期の活躍も励みに、めげることなく挑戦し続け、いよいよ迎えたラストイヤーの春季大会。絶え間ない努力は身を結び、今度はLOとして再び赤黒を手にする。そして秋には念願であった関東大学対抗戦デビュー。「3人目のFL」としてハードワークすることを信条に、早大の4番を背負い続けた。

4年時、対抗戦・帝京大戦でディフェンスに仕掛ける西浦
赤黒を着て試合に出る喜びも、それを手放してしまう悔しさをも経験したこの4年間。「正直もうダメかなと思うこともあった」と話す西浦だが、どんな時もチャレンジ精神を忘れることなく、たゆまぬ努力を積み重ねた。そんな西浦には忘れられない試合が二つある。一つ目は初めて赤黒をつかんだ2年春の早明戦。札幌ドームで見たあの光景は今でも思い出すほど脳裏に強く焼きついている。そしてもう一つが今年1月に行われた全国大学選手権決勝。この試合は、ラグビーの第一線を退く西浦にとっては選手人生最終節でもあった。「もうあの試合だけは一生見られないかなと思うぐらい悔しかった。やっぱり最後の最後で負けてしまったこと、勝って優勝できなかった、あれでチームが終わってしまったというのはすごく悔いが残っている。忘れたくても忘れられないと思う」と語った。

4年時、大学選手権・近大戦で力強くゲインする西浦

4年時、大学選手権・帝京大戦でタックルする西浦
結局、ずっと追い求めてきた『日本一』はあと一歩のところで逃してしまった。それでも「この1年、個人としてもチームとしてもやってきたことに対して後悔はない」という。「良い同期にも出会えたし、今までなにもなかった自分に誇れるものができた気がする。過去にすがるのは良くないが、最後の1年は自分にとっての誇りであり、この負けを糧にして頑張っていけると思える4年間を過ごせた」。そう振り返る西浦にとって、早大での鍛錬の日々は、自らの存在を証明するかのような、人生で最も濃密な4年間であったに違いない。「このメンバー、この組織でやれて良かったと本当に思う。自分たちができなかった分、後輩たちには何が何でも優勝してほしい。そしてこの1年があったからこそ優勝できたと言ってもらえるようなチームになっていたらいいなと思う」。そう笑顔で後輩たちに思いを託し、新たなステージへと歩み始める。
(記事 安藤香穂、写真 谷口花氏、村上結太、安藤香穂、髙木颯人)