【特集】卒業記念インタビュー 軟式庭球部 小林裕仁郎/前編

特集中面/軟式庭球特集

 2024年夏、沖縄で開催された全日本学生大学対抗選手権(インカレ)にて、2019年以来の日本一に輝いた早大軟式庭球部。その華々しい成績の裏には、コートに立てずとも、懸命に声を出してチームを鼓舞し、仲間を支え続けた小林裕仁郎(スポ4=福井・敦賀)の存在があった。そんな小林は、今春をもって、16年間続けてきたソフトテニスの第一線からは退く決意をした。卒業を迎えた今、早大で過ごした4年間、16年間のソフトテニス競技人生を振り返り、思うこととはーー。前編では大学4年時のインカレ前までを振り返ってもらった。

※この取材は2月19日にリモートで行われたものです。

インカレ前対談はこちらから

--スポーツ遍歴を教えてください

 ソフトテニスだけをやってきました。小学校1年からなので、今年で16年目でしたね。

--ソフトテニスを始めたきっかけを改めて教えてください

 父親がコーチだったというのと、僕は5人兄弟の一番下なのですが、上4人ともやっていたのもあって、ほぼ必然的にやる感じでした。

--小学校でのソフトテニス生活はどのようなものでしたか

 小学校1年生でテニスを始めて、小学校4・5年生の夏ぐらいまでは、(福井)県で優勝できたら結構嬉しいというか、すごいなと自分でも思っている方でした。小学校5年の冬に、北信越のインドア大会で優勝を1回してから、そのあと、小学校6年の夏の北信越大会も優勝しました。県では割と勝てていたのですが、県外で勝てるようになったのはもう本当に小学校最後の方でした。そこで、全国的に勝てる選手になりたいなと思い始めた感じですね。

--中学でのソフトテニス生活はどのようなものでしたか

 端山(羅行、社4=石川・能登)と小学校の北信越の決勝などで試合をやっていたのですが、端山は中学校1年生から結構活躍したりしていて、小学校の時、端山に勝っていたのは僕なのに、僕は全然県でも優勝できなかったです。少し遅咲きだったかなと思うのですが、中学校2年の全国大会の団体戦でベスト8に入ってから、全国的に知ってもらえる機会も増えて、U-14の、カテゴリー別の日本代表にも入れてもらいました。そこで、後に一緒になる矢野(颯人、社4=奈良・高田商)とも、顔はお互い知っていたのですが、話すようにもなりました。そのカテゴリー別の合宿もそうですし、矢野やいろいろな人からいろいろなテニスの技術を学べて、結構苦い思いもしながら、ありがたい経験をさせてもらった3年間だったなと思います。

--矢野選手や端山選手の印象はいかがでしたか

 矢野は黙ってると顔が怖いので、関西弁だし(笑)。矢野は小学校4年生ぐらいからずっと(全国の)上の方でやっている選手で、同級生の僕からしても、僕が話すなんて、みたいな、そのぐらいすごい選手でした。矢野の周りにいる選手も本当に強い人たちばかりが集まっていたので、少し絡みづらいなと思っていました。大学に入って、手の届くところに行けるなんて夢にも思ってなかったですね。端山は小学校の時から知っているのもあって、割とずっと合宿中も一緒にいました。端山は、当時からとてもうまかったですが、その時は今ほどそんな全国のトップ中のトップというわけでもなかったので、その時は一緒にいてくれましたね、まだ(笑)。

--中体連の最後の大会はどのような結果でしたか 北信越までは個人も団体も優勝しました。全中は個人戦1回戦でド緊張して飛びまして(笑)。団体戦はベスト8でした。なんとも言えない夏でした

--高校でのソフトテニス生活はどのようなものでしたか

 まず、高1のインターハイ予選で、県の個人戦で優勝しました。次の日に団体戦をやるのですが、僕が絶対負けてはいけない試合で負けて、団体的にも負けて、決勝に行けないという苦い思いをしました。先輩の保護者に謝罪しまくるという始まり方をしました。その後にあった北信越では、団体戦は1回戦で端山の学校と当たって負けてしまったのですが、個人戦は1年生ながらにベスト16ぐらいまで、結構優勝候補を倒していけました。結構満足していた中、1年生で優勝したのが端山だったので、やはりすごいなと思って、なんか悔しいと思うようになったところから始まりましたね。2年生になる頃に、少し勝てない時期がきて、2年生のインターハイ予選ではベスト4にも入れなかったです。インターハイの権利もやっとギリギリ掴めたぐらいで、北信越も個人戦1回戦で負けてしまいました。どうしようと思っていました。それで僕はもう試合するのが嫌というか、テニスをするのが嫌だったぐらいの大スランプだったのですが、その1週間後ぐらいにインターハイとはまた別のハイスクールジャパンカップという全国大会があって、その日から調子が戻って、急に全国大会3位になりました。夏のインターハイはそのハイスクールジャパンカップ3位というのもあって、結構周りから期待してもらえていたのですが、3回戦で負けて、2日目にも進めず終わりました。団体戦も1回戦で負けました。夏が終わって、世代交代して、一番最初の大会は個人戦で優勝したのですが、秋の個人戦は3位で終わってしまいました。それが高校の最後の個人戦だったので、今思い出しましたけど、あまり良くなかったですね。結構残念な終わり方をしてますね。高2の冬にコロナが来て、一応北信越大会みたいなのはあったんですけど、それも1回戦で負けて。それも端山が優勝しました(笑)。

--インターハイが無くなったときはどのように感じていましたか

 高2の秋の新人戦で優勝できなかったのが、その大会に対して準備も万全にして臨んでの3位だったので、ショックも大きかったです。それが結構トラウマ級に頭に根付いていたので、大会がなくなったショックもありましたが、ひとまずプレッシャーから解放された気持ちも少なからずありました。春に1年間大会が無いのが確定したので、すごくショックを受けた記憶はないですね。少し解放されたな、もう大学に向けて頑張ろうぐらいにしか思ってなかったですね。

--モチベーションはもう大学という感じでしたか

そうですね。割とすぐに切り替えられたかなと思っています。

ーーここからは大学生活を学年ごとに振り返っていただきます。まず、1年生はいかがですか

 1年生の時は大会が最初の方はなくて、秋から少しずつ大会が始まりました。1年の秋に、研修大会(関東学生研修大会、関東学生秋季リーグ戦の代替大会)に出られるチャンスがあると、先輩と話していてもそうだし、校内戦をやっていても、少し手応えがありました。でも、僕が出れるとしても、あと1枠しかなくて、その1枠を埋めるのが僕か吉岡(藍、社4=群馬・健大高崎)でした。その中で、言い方が悪いですが、吉岡にレギュラーの座を取られたというか、番手争いで負けました。5回勝ったら全勝賞なのですが、3勝2敗で初出場ながらいい結果を出していました。嫉妬ではないですけど、吉岡とそんなに変わらないと思っていた自分が最初はいたのですが、そういう結果を見ると、自分はあの結果を出せなかっただろうなと思った自分がいました。4年の最後の最後まで吉岡とは番手が近いので、ずっと番手争いみたいになっていましたが、1年生の頃はいい刺激をもらったなと思いましたね。

--2年生はどのような1年でしたか

 2年生の春(リーグ)もまた吉岡が出て、僕は1試合も出れずに終わりました。もしかしたら4年間このまま出れずに終わるかもしれないなと、(大学は)4年間あるので少し早いですが、2年の春に少し焦りを感じました。個人戦も全然勝てるようにならなかったです。これが、練習をしていなかったらまだわかるのですが、練習は人一倍やっている自信があったので、それで結果が出ないのはなんでかなと、ずっと腑に落ちないまま時間が流れていました。でも、2年生の東日本インカレで急にベスト16まで勝ち上がって、2日目に残ったのですが、そこで、その直前までモチベーションがなかったのもあって、意外と力を抜いてやることも大事だと気づきました。それが2年の夏だったので、それがきっかけで秋ぐらいから秋リーグに出してもらえたり、少しずついろいろな大会に出してもらえるようになりました。それが僕の中で、大学の4年間で見ても、結構大きい転機だったかなと思います。

--2年の時はインカレはいかがでしたか

 4回戦で負けて、その負けたのも2部リーグの大学(東海大)の、レギュラーでもないペアに負けました。しかも、結構リードしてて負けたのか、あまり覚えていないですが、勝てるような試合を逃しました。それに勝っていたらもう少し上がれるような山だったのに逃したなというのは思ってますね。

--3年生はどのような1年でしたか

 3年の春リーグに出してもらった時に、僕と松本で初めて組ませてもらったのですが、松本(翔太、スポ3=香川・尽誠学園)にたくさん助けられて、全勝賞をその時取らせてもらいました。関東リーグはそれで出場が2回目だったので、2回目にしては結構いい結果だったのではないかなと思って、それが自信になりましたね。その後も、個人戦は三田村(優音、スポ4=北海道科学大高)とペアだったのですが、団体では東日本インカレでも松本と組ませてもらいました。東日本インカレでは勝率はあまり良くなかったのですが、団体で優勝できて。インカレまでそのまま行けたらいいなと思ったんですけど、インカレはまた吉岡にレギュラーを取られました。吉岡がめちゃめちゃ頑張ってくれたので、見ていて頼もしかったですが、間違いなく練習はずっとしていたので、なんで勝てないんだろうなというのを改めて悩み始めた時期ですね。インカレ終わりぐらいから、自分の代にもなるので、秋リーグに向けてどうにか調子を上げないと、と思いましたね。代替わりをして、秋リーグは団体的に優勝したのですが、僕はフル出場できず、2勝2敗で終わりました。中大と日体大には勝ったんですけど、5番勝負を迫られた法政大学との試合の時に全然実力を発揮できずに、僕が負けたせいで、団体的に黒星をつけてしまいました。明治戦も試合内容がパッとしないまま負けてしまいました。団体で優勝したのはよかったですが、全然笑えなかった記憶がありますね。矢野とかにやはり助けられてばかりでした。優勝したのは本当に嬉しかったのですが、まだ成長できていないなと思った大会でした。

ーー秋リーグは誰とペアでしたか

 4試合とも石森(崇大、スポ4=福井・敦賀)でしたね。ハマれば、と言ってしまえば、多分誰とでもそうなんですけど、石森とは小学校の時からずっと組んでたのもあって、1回流れを掴むと、あまり逃すことがないです。それで、法政大学の秋リーグで負けた相手に、秋の六大学では勝つことができました。その試合は、普段船水(颯人、平30スポ卒)からいただいてるアドバイスを参考に、石森と2人で作戦立ててうまくできた初めての試合だったので、そこから試合の組み立て方をすごく今までよりも考えるようになったなと思いますね。

--4年生は東日本インカレまで改めて振り返りをお願いします

 出だしはめちゃめちゃ良かったです。春の六大では団体で優勝して、僕としても4勝1敗でした。個人戦もベスト4まで行って、初めて4年目で個人戦で賞状をもらえた大会でした。準決勝は結構ひどい負け方をしてしまいましたが、でも、3位は3位なので、僕的には悔しさもありましたけど、やっと少し頑張りが報われたかなというふうに思えた大会だったので、出だしは良かったですね。春の関東リーグの1試合目は石森と組ませてもらいました。調子も春リーグ前からずっと良くて、準備もしっかりできて臨んだのですが、国学院大学に勝った後、明治戦で僕が1本要らない余計なミスをしてから流れが悪くなって、明治戦は負けてしまいました。その後、5番勝負が2回連続、中大・法大で回ってきたんですけど、どっちも勝てませんでした。春リーグで2位まで大学王座という、僕たちがずっと目標にしてきた大会に出る権利を取れるのですが、もう僕が5番勝負に2回負けた時点で(可能性は)ほぼなくなってしまいました。矢野や4年生みんなにですけど、王座には僕ら4年間で、結局1回も行けなかったので、そこは申し訳なかったです。そこに勝てれば、後輩にもそうですけど、みんなに王座の景色を、見せることができたのになと思います。今思い返しても、あの場に立って何かできたかと考えると、あれ以上のパフォーマンスは多分できなかったと思うんですけど、でも、それはすごく結果としては悔しかったなと思いますね。個人戦も飯干(開生、社2=東京・早実)と組んで、インカレ懸けの試合でファイナルで負けて、個人戦の枠を自力で掴めずに、校内枠になってしまいました。校内枠を取った後、東カレの個人でも自力枠を取れずに、団体もB チームに出してもらって、全然勝てませんでした。調子の良し悪しとはまた関係なく、全然勝てなかった期間だったなと思います。枠も取れないし、部に迷惑をかけたなというふうに思います。

後編につづく