【連載】『平成30年度卒業記念特集』第68回 平野晃生/卓球

卓球男子

「やっぱりここでよかった」

 「反省の一年」。平野晃生(スポ=山口・野田学園)は主将としての一年をこう振り返る。女子部が結果を残していく中で、男子部は平野の在学中一度も関東学生リーグ戦(リーグ戦)、全日本大学総合選手権(インカレ)共に優勝を飾ることはなかった。1年時から団体戦に出場していた平野は、この早大での四年間と主将という責務を終えて、一体何を得たのか。

 両親の勧めで小学校に上がってすぐ卓球を始めた。スピードのあるラリー。その中で自ら考えて思い通りに点を取れたときの面白さに平野はどんどんのめり込んだ。辞めたいと思ったことはと問えば「ないですね」と即答する様子から、競技への好感が伺える。幼いころから仙台育英高の卓球部に憧れがあった平野は、仙台育英高の卓球部が廃部になった際に指導者らが移った野田学園高に進学を決めた。そしてある時、早大に進学した先輩が卓球部の対応の良さについて話すのを耳にする。「最高の環境に行けるなら行きたいと思っていた」。平野の願いは叶い、高校卒業後はエンジのユニフォームに袖を通すこととなった。

体の大きい平野が繰り出すボールは強烈だ

  期待のサウスポーとしてチームに加わった平野は、現日本代表としも活躍する大島祐哉(平28スポ卒=現木下グループ)や、山本勝也(平28スポ卒=現リコー)ら実力のある4年生らと共に練習に励んだ。山本とペアを組んだインカレ団体の部では惜しくも準優勝となったが、パワーのあるボールと速いカウンターを生かし着実とチームに貢献している。インカレ個人の部でも3位に入賞するなど、早大の戦力として申し分ない成績を残した。しかし安定感のある大島らが抜けた2年時からは、厳しい戦いを強いられることも増えていく。チームが思うように結果を出せないまま最高学年を迎えた平野は、主将という大きな役目を任されることになった。

 主将という立場について考え始めたのは3年時の途中からである。これまでの戦績を見れば、平野が主将になるのは自明のことであった。当時の主将は上村慶哉(平30スポ卒=現シチズン)。何でも率先して行い、その姿を後輩に見せて引っ張っていく上村の姿は、平野にも影響を与える。しかし、自身を「ガツガツ引っ張っていくタイプではない」と話す平野は、上村のような主将を目指す中で、足りないところを自分で考え補いながら主将の立場と向き合うことに決めた。平野が主将になってからのチームは、五十嵐史也(スポ1=石川・遊学館)や緒方遼太郎(スポ2=東京・エリートアカデミー)、硴塚将人(スポ3=東京・エリートアカデミー)らを試合の前半に出している。平野は勝負の重要な分かれ目である6番や最後の砦となる7番に回ることが多くなった。「プレッシャーなくやって欲しかった」。試合前に「思いっきりやってこい!」と声を掛ける平野は、試行錯誤の中、たとえ優勝に導くことができなかったとしても、自らも戦いながらチームを見守る立派な主将であったと言っていいだろう。

 四年間の中で最も印象に残っている試合は、自身が負けてしまったことで優勝の可能性がほとんど途絶えてしまった昨年の秋季リーグ戦、専大戦だそうだ。「チームにとっても、自分にとっても悔しかった」。平野は日本最高峰の舞台・全日本選手権のダブルスで3位に入賞したことがある。輝かしい成績も残している中で、それでも迷わず専大戦と答えた。「チームをもっとこうできたなということがいっぱいあった」。卒業を目前にしても、終わったことに対して美化せずに向き合っている。学生主体の早大卓球部で四年間を過ごし、主将という立場も経験した平野は、考える力と責任感のある選手へと育っていた。団体戦で結果は残せなかったものの、人に恵まれ、雰囲気も合っていたと話す。「やっぱりここでよかったなと思う」。この春エンジのユニフォームに別れを告げる平野は、自身の四年間をこう振り返り笑った。卒業後は社会人卓球の舞台へと進む。平野は早大で得た経験を糧に、きっといい報告を持って再び17号館の卓球場へ訪れるだろう。

(記事 今山和々子、写真 吉田寛人)