共に過ごした『海』と『チームメート』
「大自然と一緒に戦える」。ヨット競技の面白さを新井健伸(商=東京・筑波大付)はこう語った。大学から競技を始め、部で合宿生活を送る中で朝から夜、春から冬とずっと海を見てきた。選手としてさまざまな経験を重ねてきた新井は、強豪・早大ヨット部で過ごした4年間、そして主将として連覇を成し遂げた最後の1年間で何を感じたのか。大学生活をささげたヨット部での記憶を振り返る。
2年間、ペアを組んできた西村宗至朗(社=大阪・清風)・新井組(新井は写真左)
幼少期はやんちゃで活発な性格だったという新井。クラスの中では周りを引っ張る役職につくことが多かったものの、決して真面目なタイプではなかった。特に中学時代は騒がしい雰囲気やいたずらを好み、反省文を書くこともあったと回顧する。そんな新井が早大を選んだのは祖父の影響が大きい。人生の目標としている祖父と同じ大学で学ぶことを目指して、受験校は『早稲田一本』に絞った。人前でも常に堂々としている先人の姿に憧れ、新井は早大の門をたたくこととなった。
ヨットを始めたのは大学に入ってからだ。一つの目標に向かって懸命に打ち込む部活に入りたいという思いと、ヨットをやっていた父の存在がきっかけとなった。ヨット部に対する第一印象は「アットホームで温かい」。しかし、その下積み生活は非常に厳しいものであった。自分たちだけで生活をしながら練習に励んでいるため、下級生は練習の手伝いや雑務が多い。そのため、最初の1年はほとんどヨットに乗ることができなかったという。そのような状況に耐え切れず、同期は次々と辞めていった。相談を受けていながら、それを止められなかったことに悔しさと悲しさを覚えていた。
そんな新井だが、学年が上がるとエース艇と称される1番艇に乗ることとなる。新体制発足後、そのクルーに抜てきされると、チームの主力を担う田中美紗樹氏(令2スポ卒)とペアを組んだ。「4年間を振り返ると一番キーになる存在」と語るほど、新井にとって転機となる出会いだった。その後、日本でトップクラスの実力者と一緒に乗ることで、新井のヨットスキルは格段に上昇。田中氏から教わった技術は、競技人生における土台となった。しかし、この年に早大ヨット部は全日本インカレでの優勝を逃す。新井は、ハーバーに戻るまでの道を「ヨット部の中で一番忘れられない記憶」だと語る。お世話になった当時の4年生が泣いている姿を見て「勝たせてあげられなかった」と無力さを痛感した。
また、この大会と並んで印象に残っているレースとして3年時の全日本学生選手権(全日本インカレ)を挙げた。チームみんなでつかんだ優勝を実感し、うれしさを味わいながらも、新井の内面には緊張や恐怖心がこみ上げてきた。この瞬間から代が変わり、来年もこの景色を見るために頑張らなければならない。そして、その中心になるのは自分だと身の引き締まる思いがした。
迎えた最後の年、前例がほとんどない未経験からの主将就任に『見えないプレッシャー』を感じていた。これまでの早稲田の主将といえば、歴代ヨット界のスターばかり。大学からヨットを始めた自分が、部員をまとめることができるのか不安を抱いたという。その中で最も大切にしてきたのは「自分自身が成長する姿を部員に見せること」。後輩を支える立場である自分が最後まで成長しようとする姿を見せることで、自然とチーム全員が伸びると考えてきた。そして、自分自身だけでなくそれを同期にも大切にするよう伝えてきた。すると、早大は団体戦で連勝を重ねる。両クラスの総合力が重視される全日本インカレでは、念願となる大会連覇を成し遂げた。
全日本インカレ連覇を果たし、ガッツポーズを見せる新井
「一人でもいなかったら勝てなかった」。最後まで苦楽を分かち合い、『できる主将』ではなかった自身を支えてくれた同期に対して、新井はあふれんばかりの感謝を見せた。同時に、4年生中心のチームづくりになり、後輩にはなかなかチャンスが与えられなかったと後悔をにじませた。そんな後輩たちに対しては、チームの勝利のためにできることを最大限やってくれたと敬意を表し、「こうなってほしいという後輩になってくれた」と口にする。今年度の早大ヨット部で期待している選手を聞かれると、新井は「みんなに期待してるからなあ」と目を細めた。
家族以上に生活を共にしてきた早大ヨット部を「心の寄りどころ」だと述べた新井。選手として、そして一人の人間として向き合ってきた部に対し、その存在の大きさを感じさせてくれた。卒業後は社会人になるため、競技としてのヨットからは離れることとなる。それでも、新井は今後もきっと自然と海に行きたくなるだろうと笑みをこぼした。「この先もヨットには乗り続けると思う」。4年前に出会った『ヨット』と『チームメート』との思い出を胸に、新井はこれからの人生を歩んでいく。
(記事 宮島真白、写真 足立優大)