負けたままでは終われない
「負けたのは自分のせいだと思っています」。永松礼(スポ=大分・別府青山)は、昨年11月の全日本学生選手権(全日本インカレ)を振り返って、こうつぶやいた。創部史上初の4年連続日本一を目指した昨季の早大。そのスナイプチームをリーダーとして率いた永松は、集大成の舞台でまさかのミスを犯した。悔やんでも悔やみ切れないレース――しかし、永松はここで終わる男ではなかった。
1学年上の姉・永松瀬羅(平29スポ卒=現豊田自動織機)を追って早大ヨット部の門をたたいた永松。入部当初から主力として活躍を見せたが、この頃は経験豊富な上級生クルーに、『引っ張ってもらっている』という意識が強かったという。転機となったのは3年生の春。同期の川上健太(創理=東京・早大学院)とペアを組むことになり、より『自分が引っ張っていく』意識を持つようになった。このことが、ヨットという競技への理解を深め、そして技術を高めることにつながったという。ラストイヤーはスナイプチームのリーダーに就任した永松。「日本一のスナイプチームをつくる」ことを目標に掲げ、そのために自身も「日本一のスナイプ乗りになる」と意気込んだ。永松がリーダーとして意識したのは、「成績で引っ張っていく」ということ。その抱負の通り、永松は春から結果を残し、夏の全日本学生個人選手権ではヨット人生で初めての全国タイトルを獲得。これに乗じてチームも勢いに乗り、秋の関東学生選手権では圧倒的な成績でスナイプ級クラス優勝を果たし、永松はMVPを受賞。個人としても、チームとしても波に乗った状態で、全日本インカレの舞台・福井に乗り込んだ。
悲願の4連覇を狙った大舞台は、永松にとって忘れられない大会となる。前半2日で1レースしか行われず、もどかしい状況の中で迎えた悪夢の3日目。前日とは打って変わって若狭湾には強風が吹き荒れた。焦りからか永松はこの日最初のレースのスタートで反則を取られる痛恨のミスを犯す。さらに翌日の最終レース、チームはついに実力を発揮し猛烈な追い上げを見せたが、永松はこの1年間でワーストともいえるほどレースとなり、チームの足を引っ張ってしまった。決死の反撃も及ばず、結果は2位。4年間で初めて全日本インカレでの負けに直面し、4年生たちの目には涙があふれた。「あともう1レースできていたら」、「あのミスさえなければ」――計り知れないほどの後悔が、永松を襲った。しかし、永松の4年間はバッドエンドでは終わらない。
全日本インカレ後、涙を流す永松
全日本インカレから2週間後、永松には早大ヨット部の一員として臨む最後の大会・全日本スナイプ級選手権が待っていた。社会人や海外招待選手も出場するハイレベルなレガッタ。神宮泰祐(政経3=東京・早大学院)と組んで出場した永松は、「最後だし、楽しむしかない」とリラックスして臨んだ。プレッシャーから解放されていた永松は初日から好調をキープ。強風の中でなんとか上位に食らい付き、3位で最終日を迎えた。ここで福井では吹かなかった『勝利の風』が、早大に吹いた。大差で前を行っていた2艇が共にミスを犯し、一気に首位に躍り出ると、最終レースではトップフィニッシュを決める。全日本インカレでの悔しさをバネに、そして最後に運も味方につけた永松・神宮組が、全日本チャンピオンに輝いた。シーズン開幕前に言っていた抱負の通り、『日本一のスナイプ乗り』になった永松。この優勝には、1年間チームを先頭に立って率いてきた永松の、「このままでは終われない」という意地すら感じられた。永松は自分の手で、有終の美をつかみ取ったのだ。
卒業後は一般企業に就職するため、本格的な競技生活からは身を引くこととなる。それでも、「スナイプ級は生涯現役の艇種」であり、永松は、「いずれは世界の海でセーリングをしてみたい」と語ってくれた。永松が、「日本で一番、本気で『日本一』を目指せる場所」と表現した早大ヨット部。そこで本気で日本一を目指し、そして日本一をつかみ取った永松に、もう恐れるものは何もない。これから続く長い長い人生という名の航海も、永松は自分の手で舵を切っていく。
(記事、写真 松澤勇人)