2年時からマネジャー、そしてこの1年間は主務として文字通り『奔走(ほんそう)』した東陸央(社4=東京・早実)を特集した後編。今回は、臙脂を目指した理由から、マネージャーのやりがい、チームを支える上で意識していたことを語っていただいた。
※この取材は1月26日にリモートで行われたものです。
「これからもっと強くなる早稲田の第一歩を歩めたのは何よりの財産」
現役最後の大会となった、2020年の東京陸協ミドルディスタンス・チャレンジ。このとき、「マネージャーブロックに転向して良かったと、自分自身が胸を張って言えるよう取り組んでいきたい(記事抜粋)」と抱負を語った
――次に東さんご自身のことについてお伺いしていきます。まずは、そもそもなぜ早稲田を目指されたのですか
早稲田を目指した理由は、一番文武両道な学校だと思ったからです。ただ最初から目指していたのではなくて。元々都立を受験する予定だったのですが、何気なく受験の雑誌を見ていたら、東京の私立の最後に、五十音順で「わ」が一番最後なので、早実あるじゃんと思って見たら受験資格を得ていて。それで受けたというのがきっかけです。最終的には一番学業と陸上のどちらも捨てたくなかったので、そういう意味で早実に決めました。
――大学2年生の途中でマネジャーに転向されました。そのきっかけや経緯についてお聞かせください
マネジャー転向の経緯は、僕の方から、結果が伸びないというところでお話ししました。その当時はすごくギャップに苦しんだのですが、僕は下級生の頃からすごく色々な先輩にお世話になっていましたし、同期ともすごくコミュニケーションをとる機会が多くありました。自分が選手として活躍するというのも目標ではあったのですが、それ以上に早稲田大学の競走部で貢献したいというか、チームの一員としてより上を目指していきたいと思っていました。今一番自分が貢献できるのは選手としてではなくて、マネジャーなのかなと思って、礒先生(礒繁雄総監督、昭58教卒=栃木・大田原)にマネジャー転向を相談させてもらいました。
――マネジャーの仕事をする上で心がけていたことは何ですか
一番はすごくシンプルなことではあるのですが、選手とコミュニケーションをとるということですね。マネジャー業務はいろいろ多岐に渡っていて、タイムの計測やビデオの撮影、あとは裏方の会計や外部との取材の対応など、いろいろな事務作業があります。それをやるだけであれば、正直別に自分でなくてもいいと思います。何より自分は元々選手だったという背景もありますし、選手は一人一人考えていることや目指していているものが若干は違ってくるので、練習後に声を掛けるのもそうですし、試合前はどういったサポートをして、どういった声かけをしていけば選手が良い状態に向かうのかというのは、本当に常に考えながらやっていました。たまに忙しすぎてそこをないがしろにしてしまった部分もあったのですが、絶対に忘れないように意識していました。
――選手との接し方の部分で、マネジャーになってから変わったことはありますか
そこまで大きくは変わっていないかなと思います。ですが、選手の時はその日の走りのフィードバックをもらったり、疑問点を同期や先輩に聞いたりすることが多かったのですが、マネジャーになってからは安心感を与えたりとか、聞かれたことに答えるというのが多かったです。だからこそ試合のスケジュールや開催地、種目は前もって頭に入れておかないといけませんでしたし、練習以上に試合のことを考えたりとか、競走部のことを考えてサポートできるようにという点ではマネジャーになってから特に変えて意識してやっていたかなと思います。
――マネジャーのやりがいは
めちゃくちゃありますが、大きくは二つあると思っています。一つ目は、選手の近くで一緒に勝ちや負けを分かち合える、一緒に何かを作り上げていけるという点です。マネジャーになってから「こんなに人の勝ちがうれしくて、負けることが悔しいんだ」と思うようになりました。特に今年度は、関カレ(関東学生対校選手権)でも日本インカレ(日本学生対校選手権)でも4継(4×100メートルリレー)で負けて、その点をすごく実感しましたし、支えてきた分、選手の活躍がうれしかったというところで、サポートにもやりがいがあるなと感じました。二つ目は、多岐にわたる業務をマネジャーブロックで協力してやるというところが今後にも生きるなと思います。マネジャーになる前までは、(マネジャーの仕事は)選手のビデオを撮って、タイムの計測だけがメインの仕事なんだろうなと勝手に思っていました。ですが、全然違くて、会計、取材対応、競技会運営といったところでものすごくいろいろな仕事をマネジャーブロックで協力してやるというところが今後にも生きるなと思います。特に相楽さん(相楽豊前駅伝監督、平15人卒=福島・安積)にもよく「マネジャーの仕事は将来社会に出た時にも通用することだし、そこは自信を持ってやってほしい」と言われていました。そこを主務としてしっかりやりきれて、その仕事をできたというのは、今後の人生でも大きく自信になると思っています。なのでその二つはマネジャーの大きなやりがいだと思います。
――逆に大変だったことは何ですか
選手ではないので、直接目に見えるかたちでチームに貢献するのがすごく難しかったです。例えば駅伝であれば、自分が区間賞を取って、何人かを抜いて、順位をあげればそれだけで貢献したということになります。短距離も、インカレで1位で8点取った、というような、チームの目標に対して、明確に自分が貢献できないというところは本当に常に難しさを感じていました。その中でも僕たちスタッフにできることは、選手が試合でいいパフォーマンスを発揮して、チームの目標に近づくための環境づくりだけです。なので、常にすごく間接的ではあるのですが、それが必ず最後チームの結果に自分のサポート一つで変わるという責任を持って選手と向き合っていたというのはすごく難しかったです。今でもそれはできていたのかと言われたら分からないのですが、そこは常に自分が抱える永遠のテーマとしてありました。
――4年間で一番大変だった時期はどのように乗り越えましたか
4年間で一番きつかったのは4年目で、就職活動と主務の仕事が重なったというのが一番大きかったですね。特に僕の場合は駅伝主務を務めさせてもらったので、年間を通して忙しかったし、大変でした。乗り越えたところというのは、選手の活躍や、選手が「東さんが主務で良かった」とか、「東さんが駅伝主務で良かったです」という言葉をかけてくれて。日々の忙しさに忙殺されて、「なんで自分こんなことやっているのかな」とか自信を失うこともすごく多かったのですが、そんな中でも寮の風呂やグラウンドで話す、選手からしたら何気ないと思うのですが、声を掛けてくれるというのが、乗り越えるきっかけになったというか、力になりました。
――駅伝主務として長距離も担当することになりました。どのような点が難しかったですか
僕は短距離をやってきていて、長距離のことを何も知らなかったので、最初は計測もなかなかうまくできなくて。そもそも長距離にどういうチームのルールがあって、というのも把握できているようでできていませんでした。試合も、短距離の試合に帯同することがこれまで多かったので、4年目にして初めて行く大会もあって、すごくそこは難しかったですね。あとはやはり、短距離の選手と長距離の選手でカテゴリーを分けた時に、短距離の選手よりも長距離の選手の方が真面目で素直で、でもどこか、私生活が子供っぽかったり、ちょっと提出物が遅れてしまったりルーズな部分もあって。今まで以上に長距離のこと知りたいなと思ったので、コミュニケーションは積極的にとるようにしていました。本当に先ほども言ったのですが、花田駅伝監督にもいろいろ教わりましたし、他のマネジャーには本当に助けられながら何とかやることができたかなと思います。
――今年度は、短距離も長距離もどちらも監督が代わるというなかなかない年だったと思いますが、そういった部分での大変なことはどのような点でしたか
そうですね、すごく大変でした。それまでの礒先生と相楽さんでやってきたことから大幅に変更があって。例えば、練習内容もそうですし、合宿地や合宿で泊まる宿泊先も全部変わりましたし、選手の勧誘の仕方も変わりました。いろいろ求められる部分が変わるところが多くありました。ただその中でも、(大前監督と花田駅伝監督)お二方に共通して「早稲田を強くしたい」というのがすごくありました。その軸はブレていなかったので、僕も大変ながらも短距離も長距離も大前監督、花田監督、どちらも本当にこれからどんどん強くなっていくチームだと主務として見ていて確信しているので、その1歩目として土台を築けることができていたら、何よりうれしいかなと思っています。
――マネジャーや主務を経験して一番得られたものは何ですか
主将と並んでチームの中でものすごく大事な役割、特にコーチ陣と選手の間を持つというのもそうですし、主務にしかできない、申請の書類であったりとか、会議の場というのもあったりして、ものすごく責任が大きい仕事を任せてもらえたというのは、得るものが大きかったと思います。ただ僕は、武士さん(文哉氏、令3文卒)や、1年前の佐藤さん(恵介氏、令4政経卒)、駅伝主務の久保さん(広樹氏、令4人卒)と比べて、決して器用な方ではなくて、最初からうまくいくというのがあまりありませんでした。そこはコーチの皆さんもすごく感じていたと思うのですが、その中でも大前さんや花田さんは僕を主務に任せてくださり、チャレンジさせてくれました。その一緒に一からチームを作れたという経験は、主務の僕が一番身近でやらせてもらえたので、これからもっと強くなる早稲田の第一歩をお二人の監督、そして選手と歩めたことは何より一番大きな財産と思います。
「失敗の積み重ねが今の自分につながっている」
昨年10月8日、トラックゲームズ in TOKOROZAWAで『個性的』な短距離ブロックの選手とともに(中央右、白ロングTシャツ着用)
――競走部で過ごした4年間を振り返っていかがですか
一言で表すと、失敗尽くしの4年間でした。選手として入部して、うまく走ることができずにマネジャーに転向させてもらいました。マネジャー、主務になってからも、決して完璧なサポートができたわけではなかったです。しかし、失敗の積み重ねが今の自分自身につながっていると思います。礒先生、大前監督、花田駅伝監督の下でいろいろチャレンジさせてもらい、苦しい思いをしながらも周囲に助けられて主務の仕事をやりきれたことは、自分の人生の財産になると確信しています。加えて、4年間寮生活だったこともあり、いろいろな仲間に出会えて、先輩、後輩問わず、プライベートで話せる仲間が増えたことは一番の財産だと思っています。
――東さんにとって早稲田大学競走部とはどのような存在でしたか
言葉のあやかもしれませんが、部活動というよりかは、仕事だと思っていて、与えられた仕事に対して、責任感を持ってやらなければならないと思ってました。僕はユニホームではなかったですが、エンジを身にまとい100年以上の歴史あるチームの一員として戦うことに憧れはありました。僕の大学4年間は本当に競走部一色だったので、大学生活の全てと言っても過言ではないと思います。
――後輩のマネジャーに伝えたいことはありますか
(マネジャーは)とても忙しい部分もありますが、自分にしかできないサポートを追求していってほしいです。次期主務の星合(和美、商3=静岡・沼津東)に関しては、忙しかった部分もあり自信がないかもしれないですが、コミュニケーションがとれるところは彼女の強みだと思っているので、もっとコミュニケーションをとってチームを支えてほしいと思います。(次期)駅伝主務の相川は、一見おとなしそうに見えますが、チームを支えたい、という選手を支える気持ちは誰よりもあるので、そこを全面に出していってほしいです。それ以外の下級生も優秀な子がそろっているので、自信を持って、単に先輩から言われたことをやるのではなく、自分の目で見て、チームにこう働きかけるべきだという意見を持ちながらやってほしいです。当たり前の話ですが、1人でやるよりも10人でやった方が、間違いなく幅広く、いいサポートができるのでマネジャーブロック全体で一人一人が自信を持ってやってほしいなと思います。トレーナーブロックに関しては、白井(琉歌、スポ2=千葉・柏)など人数が少なくて大変だとは思いますが、頑張ってほしいです。
――これからのチームに期待することはありますか
僕たちの代で成し遂げられなかったことを成し遂げてほしいです。短距離で言うと、関カレと日本インカレでしっかりと優勝することです。加えて、世界の舞台で日本代表になる選手を輩出することを期待してます。長距離に関しても、三大駅伝で少なくとも3位以内、本当に優勝を目指せるチームになってほしいです。早稲田の競走部は多くの応援や、多大なご支援を受けていることを、主務の立場として実感することが多かったです。過程も大事ですが、それと同じくらい結果も求められるチームだと思います。だからこそ本当に強い早稲田になって、短距離、長距離ともに学生陸上界を引っ張り、世界に出る選手を輩出するということは絶対に譲れない部分なので、後輩たちに成し遂げてもらいたいです。
――ありがとうございました!
(取材・編集 加藤志保、廣野一眞)
◆東陸央(ひがし・りくお)
2000(平12)年10月2日生まれ。東京・早実高出身。社会科学部4年。座右の銘は「情けは人の為ならず」だという東さん。主務としてチーム内外で様々な人と関わることが多い中で、常に意識していた言葉だそうです。そして自身でも意外だと言っていたのがマイブーム。マネジャーになってからは走っていませんでしたが、競走部を引退してからはペースを気にせずに毎日10キロ走っているそうです!