【連載】『令和3年度卒業記念特集』第32回 千明龍之佑/競走

陸上競技

一競技者として、駅伝主将として 苦楽を味わった4年間

 高校時代からクロスカントリー日本代表を経験するなど期待を背負って入学した千明龍之佑(スポ=群馬・東農大二)。4年間はあっという間だったという一方で、決して平たんな道のりではなかった。幾度となくケガに苦しみ、ようやく春から順調に滑り出し日本選手権入賞など大活躍を見せた4年目も、3大駅伝開幕直前に骨折。東京箱根間往復大学駅伝(箱根)こそギリギリ間に合わせたが、万全ではなかった。駅伝主将として、人一倍悔しさを抱えながらもチームを引っ張った千明の歩みを振り返る。

 陸上を始めたのは小学生のとき。サッカーや水泳と並行しながら、姉の影響で幼い頃から顔を出していた陸上クラブに入った。当初は「そんなに足が速くなるとも思っていなかった」と、陸上への強い思いもなく中学で辞めると思っていた。だが陸上部のない中学の寄せ集めのチームとして出た駅伝で区間賞を獲得すると、高校の監督から声が掛かり、競技を続けることに。走れる自信、向上心が生まれて、大学での継続も迷わず決めた。

 2019年には全日本4区を任された。ケガで試合にほぼ出られていなかった中で区間3位と好走し、自信をつけた

 小学生のころ、姉の大学のあった横浜で箱根を観戦していた千明。「あんまり意識はしていなかったですが、写真を撮った中に結構早稲田があったので、それでちょっとかっこいいなと」。それから7年ほど経ち、自分がエンジのユニホームを着る側になった。1年春から関東学生対校選手権(関カレ)5000メートルに出場し、全日本大学駅伝対校選手権(全日本)で駅伝デビュー。2年目のトラックシーズンはケガでほぼ走れなかったが、全日本4区3位、箱根4区7位と徐々に手応えを感じ始めた。

 3年目は、新型コロナウイルスの影響で数々の大会が中止・延期になった。入学時に国際大会での活躍を目標に掲げていた千明も翻弄(ほんろう)されたが、『世界』への考え方に関して変化があったのもこの年だった。

 さかのぼること4年前、入学直後に同期の中谷(雄飛、スポ4=長野・佐久長聖)とともにU20世界選手権(世界ジュニア)代表選考レースに出場した時のこと。中谷はU20内トップでゴールし代表となった一方で、千明は4番手。「世界ジュニアを逃して中谷とかとの差を感じて、そこから素直に世界大会を目指せないというか、自分じゃ無理かなって思っていたところもあった」。

 この経験で自信を失っていた千明だが、3年末に再び世界に挑戦することに。『大学生のオリンピック』ともいわれるワールドユニバーシティゲームズ代表選考を兼ねた日本学生ハーフマラソン選手権(学生ハーフ)で、一つ前の中谷とほぼ同時の9位でゴールした。代表3枠には入れなかったが「最後中谷のところまで上げて一桁でゴールできて、『まだ狙える』っていう自信になりました」。そこから、代表枠の埋まっていないトラック種目で狙おうと前を向くきっかけになった。だがその後コロナの影響で本戦が1年延期になり、千明ら4年生にとってはチャンスが消えてしまった。このことは、表現に迷いながらも「また戦って(選考で)落とされるのかもしれないって思いもちょっとあって」。悔しさと同時にどこかほっとした部分もあるような複雑な気持ちだったと振り返った。

 

最後に追い上げ、中谷(左)とほぼ同着の9位でゴールした

 その学生ハーフからケガなくシーズンインできた4年目は、キャプテンとしてチームを勢いづける大活躍を見せた。東京六大学対校大会で優勝し自信をつけると、5月の法大競技会で13分31秒52という部内最高タイムをたたき出し、関カレ5000メートルも3位。さらに日本選手権でも13分39秒で8位入賞し「4年間で一番いいシーズン」だった。だが、またケガが千明を襲う。日本選手権後にアキレス腱の状態が悪化すると、追い打ちをかけたのが出雲全日本大学選抜駅伝(出雲)数日前の仙骨の骨折。最初で最後の出雲、そして春からずっと言ってきた『3冠』初戦のレースは走れなくなってしまった。

 4年目を振り返ると「大変だった」という言葉が最初に出てきた。「一年中何かしら考えてミーティングして。まず自分のケガも大変でしたが、やっぱりチームのことも見なきゃいけない」。駅伝シーズンには、不調で離脱が相次ぐなど足並みのそろわない4年生に対して「勝つ気があるか」と後輩からの厳しい指摘もあった。どう受け止めたか聞くと、「僕たちも下級生の時に言っていたのですが、しょうがないし、やっぱり4年生として最後までちゃんとやらなくちゃいけないと感じました」。下級生の頃からチームに意見を言うことが多かった千明は、「(当時)4年生の見えている部分しか分からなかったので言っていましたが、なってみていろいろ、大変だと感じました」と、自分が下級生だった時と重ねつつ、最上級生になって初めて感じた重みもあったと振り返る。

2021年9月の早大競技会では集団の先頭を走り、仲間を引っ張った

 言動の責任は増し、自分がうまくいかないときでもチームを鼓舞しなければならない。初めてキャプテンという立場を担う中で、「チームがどうしたら良くなるのか考えてはやっていたのですが、変われたところも変われなかったところもあった」と難しさを感じた。それでも、やり直したいかという質問に対しては「僕らもそうだったように、後輩たちも一年一年ちょっとずつ考え方が変わっていったり、チームに対して責任が生まれると思います。一年間だからできたってこともあるし、来年僕らがいたら変われない人とかもいると思うので」と、来年度の新たなチームでこの経験を生かしてもらえたら、と思いを託した。

 卒業後は、早稲田出身で千明の地元・群馬にも関わりのある花田勝彦監督率いるGMOアスリーツで世界を目指す。大学では、「個人として区間賞とか(箱根)往路で活躍したかったですし、チームとしても優勝したかった」とやり残したことがあった。箱根の優勝は果たせなかったが、度重なるケガやキャプテンという立場を経験して着実に成長した千明。「全部大変でしたし、楽しかった」という4年間で積み上げてきた経験を糧に、さらに上、世界という新たな目標に挑んでいく。

(記事 布村果暖、写真 加藤千咲氏、EKIDEN News提供、高橋優輔)